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「かもしれない運転」のごとく。

文章を書くときには、
言い切るようにして、つまり、
断定をするようにして書くことが大切である。
というのをね、文章のよい書き方として
見かけたのですが、そう言うならば、
ぼくのこのブログの文章なんて、
「と思う」とか、
「わからない」とか、
「かもしれない」とか、
「うまく言えないけど」とかばっかりで、
言い切ったり、断定したり、なんて
ほとんど無いんだから、よい文章とは
ほど遠いんだなあ、と思う。

言い切る文章で書くべき理由とは、その逆に、
言い切らない文章というのは、
じぶん自身を守るような文章、つまり、
自己弁護の文章なのだから、
言い切る文章、及び、断定する文章を
書くべきである、とのことでして。
なるほどなあ、と思いながら、
ぼくは、やっぱり、文章において
「自己弁護をしている」というのは思うけど、
でも、そんな、なかなか
断定の文章なんて書けるものでもない。

たとえば、どうすれば、
戦争を無くすことができるか?
という問いを考えるとすれば、
その答えを断定して書くのは、
なかなか、むつかしい、というか、
いや、そもそも、そんなこと、
できないんじゃあないか?!
とも思ってしまう。

たとえば、そのことを
断定して書かないのであれば、
それは、ほんとうに
「自己弁護」なのだろうか、
とも考えてしまうの。

ぼくはさっき、このうえで
「なかなか断定の文章なんて書けるものでもない。」
って書いたけれど、はたして、
断定できることなんて何があるんだろう?
それは、たとえば、
ぼくが考えられることは
「人は必ず死ぬ。」ということぐらいで、
でも、たとえば、それは
「いつか?」ということは、
断定できるはずもない、と思われる。

クルマを運転するときには、
その先の瞬間では何が起きるかわからないから、
「かもしれない運転」をしましょう。
というのは、自動車学校で習ったけれども、
ぼくは、文章を書くときにも、
ドライブのときとおんなじようにして
「かもしれない文章」を書いてたいの。
つまりはさ、その先では
何が起きるかわからない、
って思いながら、文章を書かないと、
危険、というか、
こわい、というか、もしくは、
道だっても間違えてしまうかもしれないし。
それをね、つまりは、
「自己弁護」と言うやもしらないけれども、
それならばそれで、ぼくは
じぶんを護りたい。

ぼくは、ぼくなりに、
あまりにも非力ながらも、
じぶんのなかにおける
ほんとうのことを考えたい、
というだけなんだけど。
そのためにはね、やはり
「断定」も大事だとは思うけれども、でも、
「と思う」とか、
「わからない」とか、
「かもしれない」とか、
「うまく言えないけど」とか、
というようなことばが大事なんだ、って、
じぶんでは思っているのよね。

いや、ほんとうのところは、
わからないんだけどさ!

令和5年4月29日


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