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時を越えて会ってお話しをするイメージ。

前回noteでは、人と会って話すのも、
そして、本を読むのも、
どちらも大切だよなあ、というのを申しまして。
このことをね、さらにつづきとして
もうすこしだけ考えてみるとすると、
人と会う、という状況とは、
ある意味では限定的だなあ、
って感じて。つまり、たとえば
有名人、著名人、要人、立場の全く違う人、
また、遠隔地や外国に住んでいる人には
会うことはむつかしいから。
そして、亡くなった人には
会うこともできないから。
その点、本を読む場合には
そのような人たちの本やことばを触れられる、
つまり、間接的ではあれども、本を通じて
会うことができる、とも言えるだろうか。

ぼくの母方の祖父は、ぼくが
幼稚園のときに亡くなり、当時、ぼくの家族は
祖父母の家からすこし遠くの地域で住んでいたので、
祖父と会う機会はあんまりなく、おそらく、会うのは
お正月やお盆のときぐらいだけだったと思うけれども、
なので、祖父とお話ししたという記憶もほとんどない。

母より聞くのは、祖父は
小学校の先生をされていて、また
ぼくが大人の年齢になったころ知ったのは、
趣味で短歌を詠まれていて、かつ、その
祖父の詠まれた短歌をまとめた歌集が、
出版されていることでして。
その歌集を、ぼくはあるとき母に頼んで
母の実家より一冊いただいた。

祖父は、歌会のご友人の方々より
歌集の出版を打診されていたものの、そのときは
揶揄されたようにも感じられて断ったが、
でもその後盟友に言われて、やはり
出版を忽然と諾した、という旨が
祖父による「あとがき」で記されている。
そのことばのなかにはね、
【私の亡きあと、先祖の中の一人位は、
 こんな道にいそしんでゐた者もあったということが、
 後世の児孫に何かの刺激にもなるだろうとの思惑が
 あってのことである。】
とも書かれていて、初めて歌集を読んだときには、
おじいちゃん、今、ぼく、読んでいるよ!
と思いながら、感激したなあー。
つまりはさ、まさに、祖父と会って
お話しをしているかのごとく。

そして、本を読むって、なんだか
そういうようなこともあるよなあ、
って思う、と申しますか。
たとえば、何年、何十年、何百年も前に
出版及び編纂された書籍や書物や文書を
今、読むということは、その作者の方と
時を越えて会ってお話しをする、
のようなイメージもできるやもしらない。

祖父の歌集にて、ご友人の方による「序」によれば
ノートに書きためてあった四千余首の作品より、
凡そ五百首を精選されたとのことなのですが。
そのなかでね、今、ぱっと読んだもので申しますと、、

電気仕掛の玩具の時代や伊勢みやげ祖父ぢぢの太鼓は振りむきもせず

祖父の歌集『望郷』より。

‥‥という作品がさ、なんだか、
良いなあとぞんじました。

ぼくはいとこの中では一番下の年齢ですので、
この歌は、ぼくの生まれる前の時代にてその
幼きいとこたちへのおみやげの話しだと思うですが、
祖父の孫たちを想う気持ちを想像できて、好きです。

この祖父の歌集、たまに読みたくなり
本棚より取り出しては開くのですが、
これからも折に触れて読んでいたい。
それがさ、ぼくの何かの
「刺激」になると祈りながら。。。

令和6年5月29日


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