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「じぶん」という存在。(初めから無いも同然ver.)

ぼくのブログの文章の中には
「じぶん」ということばが多い、
と、じぶんでは思っている。

それは、もう、ぼくというのは
「じぶん」という存在に
がんじがらめになっている、というか、
コンプレックスになっている、というか、及び、
考え過ぎている、というか、もっと言おうとすれば
じぶんのことがわからない、もしくは、
じぶんのことをわかりたい、と感じているからこそ
「じぶん」という語句を多用してしまうんだろうか。

けれども、どれだけ、ぼく自身が
じぶんのことを考えたとしても、
それは、ぼくの身体の位置より見た
じぶんなのだから。つまり、
じぶんを見ることができるような場所に
じぶんの「目」はついていないんだから、
じぶんがどこまでほんとうの姿としての
じぶんを見られているか? ってえのも、
じぶんではわからないわ。

「じぶん自身を客観的に見る」
ということばもあるけれど、
そんなこと言われても、どうすれば
主観的にではなく客観的に、つまり、
「主体」とされるじぶん自身を
「客体」として見ることができるの?

もしも、あなたが
じぶんのことを見てくれたのならば、
それこそが、客観的なのに!
というのも思いながら。。。

逆にね、ぼくのほうから
相手に対して何かを申したときには、相手より
「それはおまえの主観だろ?」
って言われたとしても、
おれから見ればおれの視点は主観だが、
てめえから見ればおれの視点が客観だぜ!
と申し上げたくもなってしまえたい。

いや、でも、
ぼくは、どんなことも
主観でしか見ることができなくって、
客観的に見ることもできないやもしらないか。

関西弁では、相手のことを
「じぶん」と呼ばれるらしいのですが、
ともすれば、たとえば、
じぶんがじぶんを見れば、
じぶんはどんなじぶんなんだろう?!
なんてことも考え出したら、さらに
「じぶん」というのがわからなくなってしまうわ。

「じぶん」のことを考えるときに思い出すのはさ、
Mr.Childrenの2000年リリースのアルバム『Q』収録の
『友とコーヒーと嘘と胃袋』という曲で、桜井さんが
お酒を飲みながら録音されたとされるセリフの中の
【だって そもそも
 今日こんにちの自分なんて初めから無いも同然だからね!】
ということばなのですが。桜井さんの語られるごとく、
今日の「じぶん」なんて初めから無いも同然だからね!
って思えたら、もっと、
じぶんの気持ちも楽になれるかな?

ぼくは煙草は吸わないけれど、
コーヒーも、お酒も、なおかつ、
無茶苦茶な要求も、あなたのワガママも、
飲むよ。飲ませてちょうだいよ!

飲む達人に成りたいねぇ〜。

キース・リチャードの演奏も聴きたいねぇ〜♪

令和5年12月15日


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