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第12回 最後の晩餐(パート1)
【吉本隆明さん講演『喩としての聖書−マルコ伝』を、ゆっくり一声ずつ聴いてゆくシリーズ、やっております〜。ほんじつで「第12回目」です。前回noteはこちらっ。】
んでは、きょうも、聴いてまいりやすー。
それから、あの。次は、教徒、おなじキリスト教徒。つまり同信者って言いましょうか。福音書で言えば、イエスが居て、12人の弟子が、しょっちゅうくっついている12人の弟子。っていうことは、同信者であるわけですけれども。それは、同信者っていうのは、いったい何なのか? (チャプター4 / 聖書の思想のいちばん大切なこと_4:10〜)
「同信者」とは、いったい何であるのか?!
って言う場合の、たとえば「マルコ伝」なら「マルコ伝」、あるいは「マタイ伝」でもいいんですけれども。その認識っていうのはどういうふうに出来あがっているか? っていうことは、これはやっぱり、大変、僕には見事な洞察に思われるわけです。
という、その認識はどう出来あがっているか? が「マルコ伝」や「マタイ伝」に描かれている。
で、たとえば、それは「マルコ伝」なら「マルコ伝」で14章のところにあります。14章のところで、よく知られているように「最後の晩餐」っていう場面があります。
たとえば、「マルコ伝・14章」での「最後の晩餐」の場面では、
そのところでイエスがこう言うでしょう、つまり、この中に居るひとりが自分を裏切るだろう。と。裏切るにちがいない、裏切るだろう、と予言するところがあります。つまり、それはどういうことか。
イエスが、弟子たちに「この中に居るひとりが裏切るだろう、裏切るにちがい。」と予言し、
もうすこし言いましょうか。それから、同じところに、それじゃあ、そのように、この中のひとりが自分を裏切るだろう、と。そうすると、弟子たち、特にその一番チーフの弟子であるペテロが、
そうすると、弟子いちばんのチーフであるペテロが、
「いや、すべての弟子たちが裏切っても、裏切ることがあっても、」 裏切るっていう言葉は使ってないかもしれません、つまづく、っていう言葉を使っているかもしれませんけれども。「裏切ることはあっても、私は裏切らない。私はあなたを裏切りませんよ。」っていうことを、ペテロが言うところがあります。
「いや、すべての弟子が裏切っても、私は、あなたを裏切りませんよ。」と言えば、
つまり、「われはあしからじ。われはそうじゃない。私はそうじゃないよ。すべての人があなたを裏切ることがあったって、私はそうじゃないよ。」っていうふうに言うところがあります。で、あの、それに対して、その、あの、イエスがどういうふうに言うかっていうと、
そのペテロのことばに対して、イエスが、どーいうふうに答えたかって言うと、、、
のところはねぇ、次回noteで聴きたいとぞんじますっ。どーぞ、よい1しゅうかんをお過ごしになられますようにー!
2016年6月20日
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