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光のようなことばによって。

前回noteでは、たとえば、
「座右の銘」のようなじぶん自身の道標、つまり、
灯台のような、北極星のような、
光のようなことばを持っているとよい、
というようなことをしるしたけれども。
さらに考えてみると、それは、でも、
一概には言えないやもしらない、とも思ったの。

たとえば、
暗闇の中でさまよっているとき、
光が見え、そこへ、近づいてゆく。
でも、その光とは、いわゆる
罠であり、つまりはさ、
羽虫が光に導かれてゆくかのごとく、
その光の罠の中に捕らえられてしまう。

そういうようなこともね、
なきにしもあらず、
とも思う、というか。

ぼくだってもね、いわば、
羽虫なんだ。

つまり、
羽虫のごとく、
甘い蜜のような光の方向へ、
吸い寄せられてゆく、
ということもありうる、ってえのは、
思っていないといけないな、
ということも考えていたい。

とは言ってみても、その光が、
希望のような光なのか、それとも、
優しく手招きをする、でも、
罠のような光なのか、って、
どうやって見極められるの?

ことばには、
つよい力がある、というのは
よく言われることだと思うけれども。
そのつよさとは、人を
導く力、とも言えるのかもしれない。

ことばによって、
人は、人を、導き、
人は、人に、導かれる。

当然、ぼくだっても、
ことばによって、
導かれている。

それは、もう、
よくも、わるくも、
としか言いようが無いんだろう。

たとえば、戦争も、
ことばによって、
導き、かつ、導かれながら
始まってしまうものなのやもしらない。
なのだとしても、でも、
ことばが無ければよかった、
とも思いたくないんだ。

ぼくは、羽虫だ。

光の射す方へ、
飛んでゆこうとするけれども、
この光はさ、いったい、
どんな光なんだろう???

令和5年5月24日

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