表紙17

其の六十五 芸術魂

《吉本隆明さんの講演『芸術言語論 −沈黙から芸術まで』(平成20年7月19日@昭和女子大学人見記念講堂)を、ぼくが毎回ほんのちょっとずつ聞いてゆきながら、あらためてどんなおはなしだったのかを思いかえしてまいります。》

いかにも、こんにちは。きょうも、ききたいの。

前回noteでは、「第一芸術とは何なのか。っていうことは、たとえば桑原武夫さんは優れた仏文学者ですから、フランス文学の優れた作家の長編小説を元にしたり、あるいはポール・ヴァレリーのような近代の詩人の作品を基準にしているから、日本の俳句が名前取っちゃうと誰が書いてるのか区別がつかんじゃないか。っていう論理が成り立つんだ、という理屈になります。」と吉本さんおっしゃるばめんでした。

では、つづきだよん。。。

これに対して、えーと。これに対して、あの。小林秀雄さんが第一に、あの。そんな、そんなことを言うと、いかにも都合よくそんなことを言うけど。(チャプター11 / 芸術の価値_5:45〜)

「この桑原武夫さんの『第二芸術論』に対して、小林秀雄さんが言ったことは、」

例えば芭蕉の俳句は、えーと。芭蕉の魂っていう、俳句の魂って言いましょうか。芸術魂っていうのは、決して、その西洋の優れた作家と比べて、

「たとえば松尾芭蕉の俳句は、芭蕉の魂、俳句の魂、つまり芸術魂というのは西洋の作家と比べて、」

あの、例えばポール・ヴァレリーの詩と比べて。あるいは、バルザックの長編小説『谷間の百合』みたいな長編小説に比べたって、

「たとえばポール・ヴァレリーの詩や、バルザックの長編小説と比べたとしても、」

決して、劣るもんじゃないんだ。っていう論議を、そのときにすぐに反発して、そういう論議を展開したことがあります。

「けっして劣る作品ではないんだ。という論議を小林秀雄さんがすぐに反発して展開したことがありました。」

芸術魂‥‥。うーん。このおふたりの論議、どーなったのだろう?! 講演つづきは次回noteでききます〜。

平成28年10月18日