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なぜ、勉強はおもしろいのか?

ゲームって、なぜ、
こんなにもおもしろいんだろうか。

たとえば、なんだろうかなあ、
そのゲームがさ、
むつかしかったとしても、
むつかしいからこそ、
クリアしたくなって、
なんども、なんども、なんども、
プレイしてしまうのか。

つまりはさ、困難を
乗り越えようとすること、そして、
困難を乗り越えたときの達成感を、
ゲームによって感じられるから、
おもしろいのかもしれないなあ。

高ければ高い壁のほうが、
登ったとき、気持ちが良いもんだから〜。

あとは、でも、
ゲームの困難性だけじゃあなくって、
ストーリーがおもしろい、とか、
システムがたのしい、とか、
プレイの操作性が心地よい、とか、
絵柄がよい、とか、音楽がすばらしい、とか、
そんなような、ゲームに関する
あらゆることが集積されての
「おもしろさ」なのだろうかなあ。

その逆に、
なぜ、勉強は、
おもしろくないんだろう?

勉強にだっても、
「困難を乗り越える」というような、
困難性による達成感は、
感じられるんだろうから、
勉強も、まったく、おもしろくない、
とは言えないだろう。はたまた、
勉強にも、勉強として学ぶ物事の中には
「ストーリー」はあるだろうから、
そのおもしろさだっても、まったく無い、
とも言い切れない。

でも、ゲームのような、
あらゆるたのしさとしての、
システム性とか、操作性とか、絵柄とか、音楽とか、
そういうものは無いんだともすれば、ゲームのように
「こんなにもおもしろい!」とは、
言えないのやもしれない。

無いのならば、
じぶんで作るほかないか。

たとえば、
ゲームとは、商品なのだから、
たのしく遊んでもらう商品サービスとして、
あらゆるおもしろさが詰め込まれている。
でも、勉強とは、
商品ではないんだから、
ゲームのようなサービス性は、
全く無いわけではないやもしれないが、
そんなには、無い、とも言える。

ならば、
勉強をする本人が、
勉強をするためのサービス性を、
じぶん自身で作るほかないか。

もしも、そういうものを
じぶんで作ることができたとすれば、
ゲームよりも、なによりも、
勉強がおもしろくなるのかもしれないな。

ゲームのおもしろさを考えること、
だけじゃあなくって、たとえば、
どんなことでも、
じぶんの好きなことについて、
んぜ、じぶんはそれを好きなのか?
を考えることでね、
じぶんがなにかを行うための
じぶん自身の推進力になるやもしれない。

そんなことを考えながら、きょうも、
とある勉強を続けてゆくんだぜ。

令和4年9月28日


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