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其の七十四 加味するだけ
《吉本隆明さんの講演『芸術言語論 −沈黙から芸術まで』(平成20年7月19日@昭和女子大学人見記念講堂)を、ぼくが毎回ほんのちょっとずつ聞いてゆきながら、あらためてどんなおはなしだったのかを思いかえしてまいります。》
今日まで、そして、こんにちは。講演をきこうよ。
前回noteでは、「アメリカの盛んな中間小説・中間音楽っていうものの優勢さは、ヨーロッパと言えどもこれを無視することはできないよ、という段階まで質を変えてきていると思います。そういう質の変化の仕方を、俳句みたいな、あまりに短い五七五のあいだでしなければならない場合には、そういう傾向を解釈するにはとても無理である。」と吉本さんおっしゃるばめんでした。
つづきです。。。
で、これは。日本の文学から、この特色を。あるいは、文学、詩。詩でもいいですけど。この特色を抜かしたら、ちょっと、ちょっと何とも比較できないような特殊なあれになっちゃう、と。(チャプター12 / 芸術の価値_20:41〜)
「日本の文学や詩からこの特色を抜かしたら、なにとも比較できないような特殊なものになってしまう。」
‥‥と、ここで「この特色」とおっしゃるのは、前回でききました「俳句(←日本の文学、芸術)は、形式を縮小すれば縮小するほど、新しい芸術、新しい文学、新しい詩になっていく」のこととぞんじます。
そして、、
しかし、すこしも特殊なものではありませんよ、ということを言うためには、なんか、第二芸術論、第一芸術論っていう論議は、あの。指示表出の表現の面を加味するだけ。
「しかし、特殊なものではない、と言うためには、桑原武夫さんの『第二芸術論』はただ指示表出の面を加味するだけであって。」
芸術の価値としては、増大する。っていう。そういうところを無視してるところから来てる論議であり。また、
「指示表出というのは、芸術の価値としては増大する。というところを無視した論議であって。また、」
芸術の魂は、決して負けてはいない、負けてないんですよ。っていう言い方は、その、何と言いますか。芸術の本質は、その指示表出よりも、自己表出そのものの中に、主(おも)なる問題があって。
「日本の芸術の魂はヨーロッパにもけっして負けていない。という言いかたは、芸術の本質は『指示表出』よりも『自己表出』そのもののなかに主な問題があり。」
それで、指示表出の面から。筋の起伏のおもしろさ、物語のおもしろさ、起伏っていうのは、副次的な要素としてしか。して加味するんだ、っていう。芸術の価値に加味するんだ、って。そういうふうに考えれば、考えるほか比べようがないわけです。
「指示表出という物語の起伏のおもしろさ、というのは副次的な要素として芸術の価値に加味するんだ。と、そのように考える以外には、ヨーロッパの芸術と比べようがないわけです。」
‥‥えーと。やはり、ぼくにはかなりむつかしいんですが。たぶん、順番として、まず「自己表出」があって。そこへ、副次的に「指示表出」を加味することで、芸術の価値は増大する。ということでしょうか???? 「指示表出」、つまり、コミュニケーションの部分はそのあとに来る。って言うような?!
いや、ぼくはよくわかっていないんだけれどもぉ。こんな感じでぇ、つづきは次回noteできいてゆきますぅ。こんかいでこの「チャプター12」が終わりましたんで、つぎからあたらしいチャプターへ。。。
あとさ、ポケモンGOのハロウィン仕様がすげぇー!
平成28年10月27日
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