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神聖なおまじないのようなことば。

前回noteの最後でね、
「ドアとは、そして、
 ドアをくぐることは、
 未来への希望であれたら、」
と記したんだけれども。
そんなドアには、つまり、
玄関のドアには、
ふたつの意味があると思ったのよね。

そのふたつとは、
「こっちからくぐるドア」と
「あっちからくぐるドア」なんだなあ。

たとえば、
「こっちからくぐるドア」とは
家から「出かける」ときのドア、はたまた、
「あっちからくぐるドア」とは
家へと「帰ってくる」ときのドア、というような、
おんなじ「ドア」でも、
まったく意味合いはちがうし、しかも、
意味合いだけでなくって、
くぐるときに見える景色もちがう。

その景色ってえのは、
「こっちからくぐるとき」には
「あっち」の景色、つまり、
家の「外」の風景が見えるし、そして、
「あっちからくぐるとき」には
「こっち」の景色、つまり、
家の「中」の風景が見える。

また、
ほかにも考えられることはさ、
「ドア」とは、
「門」なんだ。

たとえば、
日本の風景でよく見られる「門」とは、
「鳥居」なのだと存じますが。
「鳥居」について、ぼくは
詳しいことは何も知らないですが、でも、
神社の参道の入り口で立てられる門が
「鳥居」なのだとすれば、それは、つまり、
宗教的なものである、と思われる。
そう考えてみれば、前回noteの中でも
「ドアとは、ふしぎなもの」
というように記したけれども、
家の入り口の「門」であると言える
玄関の「ドア」とは、ある意味では、
神聖なものだと考えられるやもしらない。

出かけるとき、とくには、
旅行とか遠出をするときには、
もしかしたら出かけた先で何かが起きて、
もう帰って来られないやもしれない、
って考えることもあって。
それは、でも、
遠出をするときだけでなくって、
近くへ出るときにも、
もしかしたら、もう、このまま、
帰って来られない、
という場合もあるかもしれないんだ。

だから、どうか、
家へと帰って来られるように、家族へ
「行って来ます。」
と告げ、家族も
「行ってらっしゃい。」
と言う。

そして、また、
家へと帰って来たときには、
「ただいま」
「おかえり」
と、伝え合う。

それはさ、ただの
あいさつのことばでありながら、
ドアという「門」をくぐるときに唱える
神聖なおまじないのようなことばやもしれないな。

ともすれば、
家の玄関のドアという「門」は、
家族が、
出かけること、及び、
帰って来ることを、
見守ってくれているんだろうか。

そんなことをね、
先日、映画館にて
『すずめの戸締まり』を観てから、
ぼんやり、考えていたんだった。

家族だけが持ち合わせる
家の「カギ」を手にしながら、
家族たちは、きょうも、
出かけて、そして、帰るのでしょう。

令和4年11月23日