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天下分け目の「地形」について。

先日、録画にてテレビ番組『ブラタモリ』の
「関ケ原の戦い」の回を観ました。

岐阜県の関ヶ原では、慶長5年(1600年)、
徳川家康率いる東軍と、
石田三成率いる西軍とで争われた。
関ヶ原町の地域では、地形的に見ると
東側が低く、かつ、西側が高い位置にあるので、
当初は高い場所で陣を取る西軍優位であったが、
東軍もまた、地形を巧みに利用することによって
その戦況を変えてゆき、また、この地域において
一番高く位置する山で陣を取っていた小早川秀秋が、
一番高いこの山より戦況を見ながら、あるとき、
西軍から東軍へと寝返ることによって、
東軍が優勢となり、そして、この戦いは
六時間ほどで決着がついた、とのことでして。

ぼくは歴史について詳しいことも存じないので、
なんにも語れないけれども、でも、
関東と関西とを分ける関ヶ原の地において、
「天下分け目の決戦」とも言われる
関ヶ原の戦いが起きた、というのは
すごいなあ、と思いました。

そしてまた、この決戦が行われる
「六時間」という時間のあいだには、
いろいろな戦略だったり、
いろいろな動きだったり、
いろいろな思惑だったり、というような
それらが複雑に入り組みながら、もしも
そのどれかひとつでも欠けていたら、
戦況はちがったものに成っていたやもしらない。
ともすれば、もしも、
東軍は敗れ、西軍が勝利していたら
今の日本はどのように変わっていただろうか?

ってゆうことって、でも、この
「関ヶ原の戦い」だけでなくて、
あらゆる歴史においてそうだと思う、
というか、つまりはさ、もしも
「大化の改新」が、「承久の乱」が、
「明治維新」が、「太平洋戦争」が、
実際の状況とはちがう結果と成っていたならば、
現在の社会もまた大きく変わっていたのかなあ。

同じくテレビ番組『ブラタモリ』での
「木曽三川」の回では、
木曽川、長良川、揖斐川という
三本の大河の下流地域では、人々は
幾度とも起こる水害と戦いながら、かつ、
たくさんの工夫と対策をなされながら、
現在のこの地域の暮らしがある、
という内容を見聞きしながら、
これまた、すごい〜! と思ったですが。

たとえば、
数多の歴史の出来事において、
人間の思惑などもあったとしても、
でも、それだけでなく、そこには
その地域の地形が大きく関係している。
その地域が、もしも
その地形じゃあ無かったら、
今とは全く別の歴史と成っていて、
それは、いったい、
どのような歴史だったんだろう。

そんなこともね、
想像できるやもしらないなあー。

山も、川も、海をも越えて、
人間は何処へ行くんだろう。
そして、いったいぜんたい、
卑弥呼は何処に居たんだろう。

解らない。。。

令和5年7月22日