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「飽きる」ということ。(生きるver.)

あれだけハマっていたようなゲームソフトでも、
あるときから、ぱたっとやらなくなることがある。
それは、たとえば、
そのゲームソフトをクリアしてしまった。
むつかしくて攻略をあきらめてしまった。
やりすぎてべつのゲームをしたくなった。
やらなくてはならない別のことができた。
などなどの場合があると思うのですが。
ひとつめの「ゲームクリア」以外の理由はすべて
「飽きた」だと考えられる。

「飽きる」という状態って、とくに
なにかをつづけようとするときには、
まさに天敵のようだと思うけれども。
めちゃくちゃはまっていたことでも、
なにかのきっかけによって飽きてしまって、
それ以降まったくやらなくなるって、
そんなことが起こりうるなんて、と考えれば
なんだか、おもしろい。

「飽きる」という状態こそ、
じぶん自身の心や身体が「変化」した、
とも言えるだろうし。
また、ある意味ではさ、
いつ、どんなきっかけによって、
何にじぶんが飽きてしまうのか?
というのもわからない場合もあるんだろう。

「飽きる」とは、たとえば、
それまで好きだったことが
好きじゃあなくなる、と考えれば
けっこうこわいことではあるけれど、
でも、悪癖のようにやってしまうことを
やらなくなるようになるためには、
飽きるのが一番手っ取り早い、とも思える。

たとえば、テレビゲームで言えば、
子供がずっとプレイしつづけているのを
強制的に親がやめさせてしまうと、
その子供が大人に成ってから、逆に、もっと
ゲームにはまりこんでしまう、というお話しも
本当かどうかはわからないですが聞いたことがある。
ともすれば、それを、
対話で折り合いを付けるのが
最良だとは思うですが、そうもゆかなければ
強制的にやめさせるよりかは、
そのゲームに飽きてもらったほうが
本人の心身の状態にも良いやもしらない。
ただ、どうすればそれに飽きるか?
ということはわからないのだろう。
(アルコール等の依存症状においては、
これには当てはまらない、と存じます。)

この「飽きる」のことで言うとすれば、
日々書いているぼくのブログだっても、
飽きるのか、飽きないのか、というのは
死活問題だと思っている。
一応、こうしてブログを書いているということは、
ぼくはブログを書くことに
飽きてない、と、じぶん自身では思っているけれども、
ほんとうのところはわからないかな。
じつは飽きてしまっているんだけど、
飽きていない、と、じぶんでは思い込みながら
飽きながら惰性のようにブログをつづけている、
という可能性もなくはない。

できれば、そうじゃあないとよいなあ、
とは思うんだけれども。。。

もうすでにじぶん自身がブログに
飽きていて、ほんとうは
飽きながらブログを書いていたとして、
たとえそうでも、ぼくは、
ブログには飽きても、
「生きる」ということには飽きたくない。

「生きる」ということに
じぶん自身が飽きないがために、
このブログを書いている、だったならば、
それならそれでよいとすら思える。
じつは、そんなブログというのが
ぼくのこのブログなのやもしらない〜。

令和5年10月20日


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