「わからない」とは、メタファーだから。
テストとか受験とか学校の問題とかだったら、
「わからない」というのはダメなこと、つまり、
よくないことではあるけれども、
ならば、すべての場合において
「わからない」がダメなわけでもない。
誰しもが、すべてのことを
「わかる」わけでもないし、逆を言えば、
「わからない」ことなんてえのは
たくさんあり過ぎるし、そして、
「わからない」からこそ、
どうするか? って、
考えることもできるよ。
はたまた、そういうような
「わからないこと」とは、
学校のテストのように、そこに
確かな「正解」があるわけでも無いから、
私はこう考える、みたいにして、人によって
答え方が全く変わってくることもあるでしょう。
たとえば、
ある物語を読んだときにはね、
その物語の感想が、人によって
おおきくちがうこともありうる。
その感想がね、もしかしたら
おおきく曲解している場合もあったとしても、
でも、そんな曲解だったとしても、
感想というものには、そもそも
正解も無いわけだから、その感想が
「まちがい」だなんて誰が言い切れる?!
なぜ、物語の感想が、人によって
おおきくちがうことがありうるか?
ってゆうのを考えてみると、その要因は、おそらく
「メタファー」だと思うの。
「メタファー(metaphor)」とは、
隠喩(暗喩)という、つまりは、
直喩における【〜のような】のような語句が
使われない比喩のことだと存じますが。
「メタファー」について考えるときにね、
吉本隆明さんが、「なぞなぞ」を取り上げられながら
説明されていたことを思い出します。
つまりはさ、「なぞなぞ」とは、
常識的には全く結びつけられない二つのことを
一つに結びつけるかのような問答のことですが。
そういうような「なぞなぞ」とは、
これがこうなるから、みたいにして
理屈的に考えても、わからない。
ってゆうふうに考えるともすれば、
「わからない」とは、
「メタファー」だからである、
って言えるやもしらないな。
それがさ、
「なぞなぞ」の問題だったならば、そこには
正解の答えがあったとしても、
でも、たとえば、
「物語」には、つまり、
物語の「謎(メタファー)」には、
正解は無い、とも考えられる。
だからこそ、
めいめい、おのおの、それぞれ、
考えることもできる。
たとえて言うともすれば、
そのような「物語」とは、
君たちはどう考えるか?
と、こちら側に
問いかけようとされているやもしらないな。
ならば、そんなときには、
ぼくはどう考えるか?
令和5年7月20日