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ことばの「力」について。

ぼくもこうして、日々、
ことばを話したり記したり、もしくは
ことばを聞いたり読んだりしているけれども。
とは言っても、あらためて考えてみると、
ことばとは何か? ってゆうのはよくわからないな。
ことばとは、ことばである、
というぐらいしか言えない、と申しますか。

「ことばには力がある。」
というふうに言われることもあるとも存じますが、
ぼくには、そういうような
ことばには「力」があるかどうかというのも、
よくわからないと言えばよくわからない。
つまり、ことばには、
とてつもない力がある場合もあれば、
まったく力のないことばもあるだろうし、
はたまた、その力の中にも、
良い力もあれば、
悪い力、つまり
邪悪な力もあるのでしょう。

ことばの「力」について、そんなふうにして
「ある・ない」及び
「良い・悪い」という、二軸の
マトリクス図として考えてよいものかどうかさえ、
ぼくにはわからないのですが。

ことばとは、基本的には
だれしもが利用できる、いわば
「オープンソース」のようなものなのだから、
つまり、このぼくも使うことができるのだけれども。
そんなぼくだってもね、この世界中に
多大なる影響を与えるかのような
ことばは表現できなかったとしても、
でも、じぶんの周りの人に対して
大きな影響を与える場合はありうるだろう。

そのような「影響」とは言っても、
良い影響を与えるというのは
やはりむつかしくて、つまり
「素晴らしいアイディア」を考えることが
非常にむつかしいのと同じく。
だからこそぼくならば、じぶんの言った
悪い力を持つことばによって、周りの人に対して
悪い影響しか与えない、
さらには、その力が無さ過ぎて
悪い影響すら与えない、つまり、
良い影響のようなものは与えられない。

そんなことばの影響についてもっと考えるとすれば、
周りの人に対して与える影響だけでなくて、
じぶんの言ったことばによる
じぶん自身への影響も考えられるかなあ。

たとえば、他人へと
「人差し指」を指すとき、じぶん自身のほうには
「中指・薬指・小指」という三本の指が向けられている、
というのはよく言われるけれど。
ともすれば、ぼくは、ぼく自身に対して、
その力は弱くともぼくのことばによって
良い影響を与えられたら、と思うの。

ことばって、ある意味では
だれでも簡単に無料に使用できる
フリーウェアのようなものでもあるからこそ、
じぶん自身ではことばを考えられなくとも、
だれかが考え出されたことを
(著作権の範囲内で)使うことができるから。
そんなことばのことを、ぼくは、学べたい。

令和6年2月20日

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