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無題。(令和4年3月3日の独り言)

2月25日のブログでは、
「正義」というのは、ちょっとこわいなあ、
と思う。つまりはさ、
「正義」とは、
「悪者」をやっつける、のだとして、
このときの「正義」というのは、
「正義」つまり「正しい」からこそ、
その「やっつける」ときのふるまいとは、
たとえどんな手段を使おうとも、
すべてが「正しい」ものである、
と思うようになる。
ってゆうのを書いたんだった。

このことはね、2月24日、
ロシア軍のウクライナ侵攻のニュースを見て、
感じたことを書いたのですが。この、
「たとえどんな手段を使おうとも、
すべてが『正しい』ふるまいである、
と思うようになる」というのは、
ロシア軍、及び、プーチン大統領のことを
指すようにして記したんだった。

戦争とは、
ほんとうのところはぼくにはわからないけれど、
「悪事」を働こうとして始まるよりかは、
ある種の「正義」から始まるのではないか、
と、ぼくは想像する。そして、
このときの「正義」とは、
ほんとうの「正義」ではないとしても、
本人の側は完全なる「正義」だと思っている。
だから、どんな手段をも、
行使してしまうようになる。

そういうようなことを、
書こうとしていたのだけれども。
このブログをね、あとで読み返してみると、
その反対の意味で、
ロシア軍及びプーチン大統領を「悪」として、
また、この戦争を反対しているぼくら側が
「正義」となりながら、
その「正義」のふるまいは、
すべてが「正しい」と思うようになる。
という読み方もできるかもなあ、って思って、
逆のこわさを感じたんだった。

戦争についてのことは、
ぼくにはわからないけれど、
たとえば、人間関係でもね、
「正義」の側に立つと、人間が
変わってしまうようなこともあると思うから。

なので、ぼくは、
戦争反対、とは、
もちろん思いながらも、でも、
ぼくとしては、ことさらに
「正義」の側へと立とうとすることによって、
ぼく自身の性質が変化してしまうことも、
こわい、と感じている。

かと言って、じぶんが、
どのような感情を持っていればよいのか、
ってゆうのもよくわかっていないけれど。
なんだか、こういうときだからこそ、
じぶん自身の感情の変化に、
敏感でいたい。

おひな祭り。
桃の節句。
そして、春を待つ。。。

令和4年3月3日


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