表紙16

其の三十七 三人

《吉本隆明さんの講演『芸術言語論 −沈黙から芸術まで』(2008年7月19日@昭和女子大学人見記念講堂)を、ぼくが毎回ほんのちょっとずつ聞いてゆきながら、あらためてどんなおはなしだったのかを思いかえしてまいります。》

こんにちはっ!!!!! 前回noteでは、「表現行為っていうので、極限まで拡大したり極限まで縮小したりできるわけです。このことについて、具体的例を取っておはなししましょう。」と吉本さんおっしゃるばめんでした。

それでは、つづきだよー。。。

たとえば、森鴎外という人がおります。で、えー、それから夏目漱石という人がおります。(チャプター07 / 精神と表現の型_4:28〜)

たとえば、森鴎外と、夏目漱石。

このふたりは、たぶん多くの。みなさんのうちの多くの人が、あの、読んでもおられるでしょうし。日本の近代文学を考える場合に代表的な人だろう。って言うふうに思いであると思います。

このふたりは、日本の近代文学を考えるばあいには代表的なひとと言えるだろう。

で、あの、もうひとつ、僕は。みなさんは異論がたくさんあるかもしれないから、えーと。えー。でも、僕は好きなんだよ、好きなものはしょうがないでしょう、っていう意味合いで言いますと。僕は、太宰治という人を挙げると思います。

それから、もうひとり。僕は好きなんだよ、という意味として、太宰治。

‥‥の、ここのね、「僕は好きなんだよ、好きなものはしょうがないでしょう、っていう意味合いで言いますと。」のところがさ、吉本さんほんとうにだいすきそうにおっしゃっていて、なんだかよいなぁー。と思いました。

そして、

この三人を例にしますと、だいたい、あの。精神構造と。それから、えー、表現と。それから、なんと言いますか。表現された現物、って言いましょうか。作品と。その3つを、極めて太い直線でつなげることができると思います。

この三人を例にすると、、、

と、こんかいは吉本さんそのようにおっしゃったここのところまで〜。つづきは次回noteで聞きます!!

平成28年9月20日



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