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目の前に「なにか」があったとき。

たとえば、目の前に「箱」があったとき、
それをどう見るか、というのは
見る人がどこにいて、その
見る角度によっても形が変わってくるし、
見る距離によってはサイズ感も変わるし、
光の加減で影もちがってくるだろうし、
材質のことを見る人もいるだろうし、
色のことを見る人もいるだろうし、もしくは、
見る人の体調でも感じ方が変わってくるかもだし、
見る人の年齢でも感じ方も変わってくるやもしらない。
つまり、見る人によって
どう見えるかが変化する。

それはでもいわば、
なんでもそうで、つまり、
目の前に「なにか」があったときには、
それをどう見るか、ってゆうのは
見る人によってさまざまに変わってくる。

ある作品を鑑賞したとして、見る人によっては
よい、と思う人もおられれば、
よくない、と思う人もおられれば、
よくわからない、という思う人もおられる。
そして、その作品のことを
よい、と思った人が別の作品を見たら
よくない、と思う場合もあるだろうし、
その逆もまた然り。
それはもう、そういうものだと思うの。

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」
ということわざがございますが、この
「袈裟」というのはいわゆる比喩で、つまり、
その人が着ているもの、
その人が身につけているもの、
その人が携えているもの、
その人が言うことば、
その人が表現すること、などなどなど、
憎い人がまとっているすべてのことが
憎い、という意味だとは思うのですが。
上で申しました「なにか」のことと繋げて考えると、
憎い人がまとっている「なにか」まで憎い、
という意味として解釈できるのでしょう。

また、その反対にね、たとえば、
「憎い袈裟を着ている坊主まで憎い」
という状態もありそうで、つまり、
嫌なことを言う人のことが嫌、
という状況はそういうことだろうかなあ。

でもね、そんな
「憎い袈裟」って、
どういうことだろう?! ってえのも思う。

いや、何のことを申したいかと申しあげますと、
たとえば、ネットやSNSでの炎上って、
どうして起きるのかというのは、ぼくは
よくわからないときもあるのですが。
それは、つまり、
ある価値観があって、
その価値観と合致しない人が、
そんな価値観は認めない、とか、
そんな価値観は許せない、とか、
とのように批判することだとは思うけれども。
ならば、
どの価値観が正義で、
どの価値観が悪で、
というふうに一概には分けられず、
どの価値観も、一理ある、
という場合もあるだろうから、
価値観ってむつかしいと思うのですが。

いろいろな価値観がある場合には、
認めない及び許せないと言って、
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」もしくは
「憎い袈裟を着ている坊主まで憎い」というふうにして、
その人を強く糾弾するのって、
なんかよくわからない、と申しますか。
いや、でも、批評とか、ときには
批判も重要なことだとは思うのですが。。。

でも、いや、
なんだかうまく言えなくって、
このこと、じぶんなりに
もうちょっと考えてみたいっす。

令和5年10月28日