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人間の持つ「力」について。

車って、便利だなあ! と思う。
たとえば、
とっても早く進めるし、
遠くへも楽に行けるし、
物をたくさん運ぶこともできる。
でも、そんな便利な車でも
ひとたび事故が起きてしまえば、
大惨事にだっても成りかねない。
つまり、そんな便利さも
ときに仇と成ってしまうことがある。

現在、陸上100メートル走の世界記録は
ウサイン・ボルトさんの「9秒58」とのことですが、
それを時速に直すと「37.5782881km/h」、つまり、
時速38キロメートルぐらいなのだそうけれども。
これを言い換えれば、人間の出せる限界の速度は
この「時速38キロ」で、それ以上はもう
人間の能力を優に超えている。

つまりはさ、車とは
それ以上のスピードを出すことができるので、
その車によって時速38キロ以上のスピードで走れば、
人間の限界を超える「力」を手に入れた、
とも言えるだろう。
そういうような「力」によって、
早く進むことができたり、
遠くへも行くことができたり、
たくさんの物を運ぶことができるけど、
その逆に、この「力」によって
事故を起こした場合には、他人を
傷つけたり損なったりすることがある。

それは、でも、
車だけでなくって、
あらゆる道具においても、
人間の本来の能力を超えるがために、
作られた、とも考えられる。

そんなあらゆる道具を使うための
この体、及び、この手だっても
いろいろなことができるわけだし、
便利だなあ、とも感じられるけれども。
でも、その便利さの反面、たとえば
手で相手を殴ることだってもできるわけだし、
つまり、暴力としても機能してしまう。

道具だけでなく、そういうような
手や体という身体だけでもなくって、
たとえば、
口で言うことばとか、目線とか、動作とか、
その他あらゆることだっても、
そこには「力」があり、そして、
その「力」には、つねに
「暴力性」も孕んでいる、とも考えられる。
逆を言えば、
「暴力」を孕まない「力」なんて無い。

「能ある鷹は爪を隠す」
という語句もあるけれど、言うならば、
誰しもが持っているその「爪」を、
ふだんは隠しつつ、でも、
ある場面ではそれを取り出して、
よいふうに使えたら、と、願えたい。

なんだか、うまく言えないんだけれども、
人間が「生きる」ということはさ、
人間の持つ「力」について、かつ、
人間に孕む「暴力性」について、
考えることだ、と言っても、
かごんでないやもしらないな。

令和5年4月28日


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