現在をどう生きるか1

第8回 自我

前回noteよりひきつづき、吉本隆明さんの講演『現在をどう生きるか』(1995年9月3日・山梨県立文学館講堂にて)をゆっくりじっくり聴いてゆきます。ほんじつ、第8回め。]

前回は「つまり、そういうふうに商品の価格というのは、価値の源泉と関わりなく設定できるし、また、関わりなく設定されてしまう、ってことがとても大きな特徴になります。」のばめんでした。

んでは、つづきです〜。

それから、もっと違うことを言ってみますと…、だんだん人間的なことを言ってきますと、あの、自分っていうのは…。自分って「自我」って言ってもいいんですけど。
(チャプター01「価値の浮遊性」/5:31〜)

「それから、もっとちがうこと、だんだん人間的なことを言ってきますと、自分というのは、つまり自我と言ってもいいんですけど。」

自分って、個人の自分っていうものと、あの、浮遊し…。あの、自己って、自分ってのは、自分の本体と浮遊して。いくらでも、あの、違うものになっちゃう、っていうこと。

「自分というのは、自分の本体と浮遊していくらでもちがうものになっちゃう。」

つまり、違うものに、いつでもなれちゃう。っていうこと。

「つまり、いつでもちがうものになれちゃう。」

つまり、あの、自分っていうのはあくまでも自分であって。それはどこどこの生まれがこうであって、それで、こういうふうな学校に行って、こうなって育った。っていうようなことと関わりなく、自分ってのは、あの、設定されちゃう。

「つまり、自分とはあくまでも自分であって。それは生まれがこうでこういう学校へ行ってこうして育った、ということと関わりなく、自分っていうのは設定されちゃう。」

あるいは、行って…、自分と行ってしまう、と言いますか。どこへでも行ってしまう、っていう。

「あるいは、どこへでも行ってしまう。」

あの、えー、これを別なことで言えば、あの、自分っていうものは、自分…、自分の外から自分を見る、っていうようなこともできますし。

「これを別なことで言えば、自分というのは、自分の外から自分を見ることもできますし。」

また、自分の外で、自分が思いもかけないことをやっちゃってる、とか、やっちゃった、とかっていうこともできます。

「また、自分の外で自分が思いもかけないことをやっちゃった、ということもできます。」

あの、そういうふうに、あの。やっぱり、自我っていうのも浮遊してしまっているっていう現象ってのを考えますと、それは、そういうこともあります。

「そういうふうに自我も浮遊してしまっている現象を考えますと、そういうこともあります。」

の、ここで吉本さんおっしゃる「自我」も浮遊してしまっている、という現象。ってゆうのはさ、うまく言えないんですが、なんだか、ちょっと、わかる気もする。

たとえば、昔は、こういうことは無かった。ってゆうような、時代の変化のことなのかなあ?!

いやー、わからないけれど。。。。。

と、こんかいで「チャプター1」が終わりましたので、次回noteより「チャプター2」を聴いてまいります。なにげなくこのシリーズを始めてしまったけれども、これ、このペースだといつ終わるだろう。

ゆっくりと、つづきます!!!

平成30年7月20日


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