見出し画像

あるねじがゆるんでいたとして。

なにかの非常事態が起きたときに、
その事態に対処する、というのは、
たいへんなことだし、そして、
もしも対処することができたとすれば、
すばらしいことだ。

って考えるときにね、この逆として、
非常事態が起きないようにする、というのもまた、
たいへんなことだし、そして、
もしもそうすることができたとすれば、
すばらしいことだ。

つまりはさ、
「非常事態が起きないようにする」
というのは、言い換えれば、
「予防」ってことかなあ?

仮にそうなのだとして、
前者の「対処」も、
後者の「予防」も、
どちらも大事なことだとしても、
「対処」のほうは
事態を納めた、ということだから
その行動も目に見えやすいけれども、
「予防」のほうは、そもそも
事態が起きていないんだから、
その行動は目にも見えにくい、というか。
もっと言えば、その事態が起きなかったのは、
「予防」をしたからなのか、それとも
「予防」をしなくても起きなかったのか、
というのも、わかりづらい。

でも、そういうような
「予防」的な行動って、
じつは、たくさんあるやもしれない、
とも想像する。

たとえば、
あるねじがゆるんでいたとして、
そのねじをしめようとする、ってゆうのもね、
このままだと非常事態が起きてしまいそうだから、
ねじをしめた、と言うよりかは、
ねじがゆるんでいるから、ただ、
ねじをしめた、というだけで。
そのねじとは、
非常に重要なねじだったとしても、でも、その
ねじをしめたことで非常事態が免れた、とは、
ねじをしめた本人も気づかない、
というばあいもあるやもしれない。

それはさ、たぶん、
日々の予防、とか、
日々の点検、とか、だけにかぎらず、
ちょっとした違和感、とか、
こうしておいたほうがよいかなあ???
という気持ち、とか、
などなどから行われた行動によって、じつは、
世界の秩序が保たれている、というか、
世界は今日もまわっているのかもしらない、
とも思えてくる。

そういうことが、
まったくない、と思うよりもね、
あるかもしらない、って言うよりかは、
そういうことであふれている、
と考えるほうが、
ありがたいなあ、って感じられる。

ともすれば、
このぼくには、
なにができるんだろう?!

「祈る」ことも、たとえば、
そのひとつなのやもしれないか。

令和4年11月24日


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?