表紙17

其の四十四 起こりうるんだ。

《吉本隆明さんの講演『芸術言語論 −沈黙から芸術まで』(平成20年7月19日@昭和女子大学人見記念講堂)を、ぼくが毎回ほんのちょっとずつ聞いてゆきながら、あらためてどんなおはなしだったのかを思いかえしてまいります。》

こんにちはっ!!!!!! 前回noteでは、

「この半日を両者の仲裁役で費やし、宮中参内という役目を鴎外は果たさないで終わっちゃう。っていうここでなにが問題になりうるかと言うと、鴎外と母親と夫人というこの三人の健全な人たちの関係が、ある瞬間にはもはや和解も利かないし、そのために、鴎外は重要だと思ってる宮中参内もやめにしてしまう。」

と吉本さんおっしゃるばめんでした。では、つづきだお。。。

そういう事態が起こることがありうる、っていうことです。で、これ、これは言ってみれば正常な人が、あの。正常な、鴎外のような、調和の取れた人なんですけれども。時と場合によっては、人の関係の、人間関係のあいだでは、ちょっと進退きわまってしまう、と。(チャプター08 / 森鴎外と「半日」_8:08〜)

鴎外のような正常で調和の取れた人でも、時と場合によっては人間関係で進退きわまるみたいな、こーいう事態はありうる。

そして、そのときに鴎外が使う…、どう言ったらいいんでしょう、論理とは。論理っていうのは、非常にあたまのいい高級な人なのに、知識人なのにも関わらず、

そのとき鴎外のつかった論理とは、鴎外は知識人なのにかかわらず、

要するに、母親とおまえとは付き合ってるその日にちが、だいたいまるで違うじゃないか。とかって言う、理屈にならない理屈、っていうか。あの。もう簡単な理屈に諫言しちゃうっていう。

「母親とおまえとは付き合っている時間がまるでちがう!」とかいう理屈にならない理屈で簡単にいさめてしまう。

そういう事態っていうのは、鴎外ほどの調和の取れた人でも、時と場合によってはありうる。っていうそういういい例だと。

こーいうことは、鴎外ほど調和が取れたひとだとしても時と場合ではおこりうる。このおはなしはそのよい例である。

‥‥なるほどぉ。

その「時と場合」ということは、いかようにも拡大できるし、いかようにも縮小できるんですけど。この場合には、要するに縮小の場合です。縮小する場合には、精神構造と、それからその表現と、それからその表現の結果と、その三者を直線的に繋がるくらいに、

「拡大」と「縮小」で言うと、このケースは「縮小」で。このばあいには、「精神構造」と「表現」と「表現の結果」の三者を直線でつながるくらいに、

太い線で繋がるぐらいに縮小して凝縮してしまうと、こういうことっていうのは起こりうるんだ。って。調和の取れた人でも起こりうるんだ、っていうひとつの例だと思います。

このように縮小・凝縮してしまうと、こーいうことっていうのはたとえどんなひとでも起こりうるんだ。

‥‥と。えーっと、ぼくはまだこの「縮小」というのはまだよくわかっていないんだけれどもね。でも聞いていて、なんとなくこの「こういうことって起こりうるんだ。」ていうのは、ちょっとわかる気がする。うーんと。うまく言えないんだけど、近いひとに対してどうしても言ったりしてしまうことってやっぱりあるので。。

それではっ、次回noteよりまたまた新しいチャプターへ移りまして、吉本さんの講演つづきを聞いてゆくです。

平成28年9月27日



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