見出し画像

遠い遠いコミュニケーション。

「お客様は、神様です。」
と世の中で言われていたとしても、
それを聞いた客は、
「おれは、神だ!」
とは思ってはいけない。

客であるじぶんは、神様なんだろ!!!
と、お店にすごみながら、
なんでもかんでも、
やりたい放題にできるわけではない。

お店にとっては、
お客は神様だったとしても、
じぶんにとったら、
じぶんは神様ではない。

じぶんは、じぶんである。

いや、むしろ、ぎゃくに、
客であるじぶんから見れば、
「お店は、神様である。」
と思うくらいのほうが
ちょうどよいのかもしれない。
たとえば、ぼくはさ、
お店を営むこともできないし、
どちらかと言えば、コンビニとかスーパーとかの
店員さんのお仕事もできなさそうだし。
そもそも、お店が無ければ、
暮らしてもゆけないから。
そういう意味で言えば、
お店というのは、神様のごとく、
ほんとうにありがたいー。

さらに、もっと、そもそもを言えば、
「神様」とは何なのか?!
だっても、ぼくは、
あんまりわかっていない。

「神様=好き勝手できる存在」
だとも、思えない。

宗教のこともぜんぜん存じないんですが、
ぼくとしては、「神様」と言えば、
神社へ行き、手を合わせて、祈る。
でも、そこでは、なにかしらを
神様からはおっしゃっていただけない。
そして、でも、神様は、その場所から
ぼくの生活を、ぼくらの暮らしを、
見守ってくれている。やもしれない。
っていうような、ある意味では、
「神様」とは遠い存在だとも思われる。

そんなふうに考えてみるとね、
「お店」と「お客」の場合だけでなくって、
あらゆる場面において
「人」と「人」とが対面するようなときには、
たとえば、神様に手を合わせる、かのような、
遠い遠いコミュニケーションなのかもしれないなあ。

つまりはさ、
遠いからこそ、
成り立つ関係。というか。

かんたんに、
ことばを言えば、
手を出せば、
たちまち、なにかが運び出す、
ってゆうわけでもない。というか。

うまく言えないけど、なんか、
そんなことを思ったのよねえ。

知らぬ同志が 小皿叩いて チャンチキおけさ〜

令和3年6月29日