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すばらしい将来。(「人による」篇)

そもそも、学校の勉強って、
なんでやるんだろう? それはさ、たとえば、
受験のため、とか、
進学のため、とか、
就職のため、とか、
将来のため、とか、
親から言われるから、とか、
先生から言われるから、とか、
テストで良い点を取りたいから、とか、
内申書にひびくから、とか、
社会的にそう決まっているから、とか、
義務教育だから、とか、
やらないと怒られるから、とか、
やらないといけないから、とか、
というような理由があるから、
学校の勉強をするんだろうか。

でも、たとえば、
学校の勉強をしたからこそ、
すばらしい将来は来るのやもしらないし、
学校の勉強をしたところで、
すばらしい将来は来ないのやもしらないし、
学校の勉強をしなかったとしても、
すばらしい将来は来るのやもしらないけど、
学校の勉強を全くしなかったとしたら、
すばらしい将来は来るのかどうか。

それは、おそらく、
人による、ような気がする。

そもそも、
「すばらしい将来」ということが、
どういうものなのか?
ってゆうことだっても、
人による、ような気もする。

そんなような、人にもよる
「すばらしい将来」が、学校の
勉強によって成し得るかどうか、
ぼくには、わからないな。

どんなに勉強したとしても、
社会及び世界の情勢によって、その人の
将来が変わってしまうこともあるだろうし。

‥‥と、そんなふうに考えてみれば、たとえば、
学校の勉強をすることについて言えそうなことは、
「学校の勉強をしても、それが
 将来のためになるかどうかはわからないけれど、
 学校の勉強を、全くしないよりかは
 したほうがよい、かもしれない。」
というぐらいにしかぼくには言えない。
だが、そんなふうに言ったところで、相手は
学校の勉強をしよう! とは思わないだろう。
ぼくにはさ、某ドラマの
「東大に行け!」ということも、
言えるわけもないんだから。

でも、ともすれば、
学校の勉強をする、ということにおいて
「理由」が必要なのかどうか、
も、よくわからないし、もっと言えば、
学校の勉強というのは、他人からの
「説得」に基づいて行われるものかどうか、
ってゆうことも、よくわからないぜ。

理由とか、説得とか、もしくは
要請によって行うのではなくて、
学校の勉強が、
たのしいから、する、
という状態って、あるのかなあ?

たとえば、そばにいるだれかが
たのしそうに勉強しているのを見て、
なんか、たのしそうだから
じぶんも勉強しよう!
ってゆうふうになったら、
よい、とは思うのよね。

ぼくは現在、学習塾講師の仕事をしているけれど、
そんなぼくは、じぶん自身の勉強を
たのしそうにやれながら、
その姿を、見せることによってしか、
生徒さんたちの学校の勉強における
自発的かつ内発的な動機を、
発生させられない、とは思っているの。

ならば、ぼくは、
じぶん自身の勉強を、
たのしそうにできているんか?!
いや、なかなか、
そこまでは行けていないだろう、
とも思ってしまうんだけれども。

ぼくの理想としては、
「北風と太陽」の寓話で言えば、
「太陽」の側であれたい。

令和5年5月26日


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