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其の七十三 変化
《吉本隆明さんの講演『芸術言語論 −沈黙から芸術まで』(平成20年7月19日@昭和女子大学人見記念講堂)を、ぼくが毎回ほんのちょっとずつ聞いてゆきながら、あらためてどんなおはなしだったのかを思いかえしてまいります。》
ヒア・ゼア・アンド、こんにちは。ほんじつも、きくよ。
前回noteでは、「たとえば、同時代で少し思潮を変えた作家を挙げてみれば、『老人と海』っていうのはいい小説ですけど。遥かに大衆性に富んでいて、中間的な色彩を加味したそういう小説で。我々が望みとして感動したヘンリー・ミラーみたいな人の文学とはすこしだけ質が違っています。」と吉本さんおっしゃるばめんでした。
つづきです。。。
たぶん、その質の違いかたっていうのは、えーと。現在で言えば、あの。アメリカの盛んな中間小説、あるいは中間音楽っていうものの優勢さで。(チャプター12 / 芸術の価値_19:20〜)
「その質のちがいというのは、現在、アメリカでさかんな中間小説・中間音楽の優勢さで。」
‥‥の、ここでの「中間」ていうのは、「純文学」と呼ぶようなその「純」ではなくって、文化と文化が「混合」された。という意味のようです。
講演をつづけます。
ヨーロッパと言えども、それを無視しちゃあ。あの。ヨーロッパの先進国の、いわば純文学的な音楽と言えども。これを無視することは、今はできないよ。という段階まで質を変えて来てる、っていう。そういうことになってる、と思います。
「ヨーロッパの純文学的な音楽と言えども、これを無視することはできないよ。という段階まで来ている。ということになっていると思います。」
つまり、そういう質の変化の仕方って言うのを、俳句みたいな場合には、こう、あれすることはできないんです。つまり、あまりに短い五七五のあいだでしなければならないですから、遥かにむつかしいわけです。
「そのような質の変化のしかたを、日本の俳句のばあいでは、小説とちがって五七五のなかでしなければならないですから、はるかにむつかしいのです。」
そのことは、俳句は、形式を縮小すれば縮小するほど、新しい芸術になって新しい文学になっていく、っていう。あるいは、新しい詩になっていく、っていうそういう傾向。
「それは、俳句というのは形式を縮小すればするほど、あたらしい芸術、あたらしい文学、あたらしい詩になってゆく。という傾向で。」
小説で言えば、私小説ですけど。そういう傾向っていうのを、解釈するには、とても無理である。無理である。
「そういう傾向を解釈するには、無理である。」
きょうの箇所はさ、むつかしくてちょっとなんだかじぶんなりにまとめるのはできなそうなので、このままで〜。えーと、すこし思ったのは、「俳句」とか「日本の芸術」というのはアメリカやヨーロッパとはまたちょっと違う、っていうことかな?! このつづきは次回noteで聞こうとおもいます〜。
平成28年10月26日
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