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光のようなことば。

「座右の銘」のようなことばを、
持っていたほうがよい、と思っている。

たとえば、
「座右の銘」のようなことばを、
持っていたとすれば、なにかの
困難のようなことがあったときには、
そのことばに立ち戻り、
考えることができるから。つまり、
「座右の銘」のようなことばとは、
困難のとき、つまりは、
困難な暗闇のときに辺りを照らすかのような、
「光」のようなことばだとも思う。

もっと言い換えれば、
「座右の銘」とは、
「灯台」のようなことばだとも思う。

さらに言えば、
方角を示して道標となる
「北極星」のようなことば、
かもしらない。

とは言ってみても、ぼくは、
天体のことは全くわからなくって、
どの星が北極星なのかもわからないから、
ぼくにとっては、その星は
道標には成りがたいけれども、
でも、つまりはさ、
北極星という知識があるとすれば、それは
道標に成り得る、という、つまり、
「座右の銘」とは、そのような
知識であり、かつ、
道標なのだと思われる。

たとえば、
道に迷わなければ
道標も要らないんだから、つまりは、
知識も要らないか。

でも、もしも、
道に迷ってしまったときには、
道標の光を探そうとして、でも、
太陽がさんさんと輝いていれば、
この道標の光も、太陽による
強い光にかき消されてしまって、
道標を探し出すこともできない。
ということもありうると思うけれども、
ならば、このときの「太陽」とは、
比喩的に言えば何を表すんだろう?
それはうまく言えないけれども、
でも、道標の光とは、
真夜中のような暗闇のときで無ければ、
見ることもできないのかもしらない。

心も身体も疲弊してしまったときにね、
部屋を真っ暗にして、そして、
音楽も何も聴きたくない、ってゆうときには、
もしかしたら、そんな、
道標の光を探しているんだろうか?

そんなような、
道標の光、つまりはさ、
「座右の銘」を持っていると、
よいんじゃあないかなあ、って思うの。

仮にね、その道標の光が、
太陽みたいな光のようなことばだったとしたら、
あまりにも眩し過ぎて、それはそれで、
道標にも成らないんだろう〜。

令和5年5月23日


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