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そのときに授けられたことばを言え。

そもそも、人間は、
どうしてことばを話すんだろう?

いや、「どうして」とは言ってみても、
人間がことばを話す「理由」を
考えたいんではなくって、それは、
「どうやって」と言ったほうがよいかな。
つまり、人間は、
どうやってことばを話すんだろう?

たとえば、相手と会話をするとき、
じぶんが何かを言うためには、
ことばを言う前の段階で、頭の中で
これから言おうとすることばを思いついて、
その思いついたことばを、口から出す。
という流れだとは存じますが。
そのときにね、
頭の中でことばを思いつく、というプロセスとは、
頭の中、つまり、脳では、
どういうふうになっているんだろうか。

って考えてみても、ぼくは、
そんなことは知らない。

思いつくから、
思いつくんだろう。

それ以上のことは、知らない。

ぼくの場合では、
ぼくは、どちらかと言えば、
会話が苦手なほうでして。たとえば、
なにかを話そうとしても、
その場にそぐわないことを思ってしまい、
それを、そのまま、言ってしまったり、
はたまた、なんにも思いつけないから
その場でなんにも言えなかったり、
みたいなことも、多々、ある。

そういうときには、
おれの頭って、
変なのかなあ?!
って感じることもある。

話すときに、
なにを思いつくか?
的なことで思い出すのはね、
吉本隆明さんの講演『喩としての聖書』にて、
「そのときに授けられたことばを言え。」
のことかなあ〜。

この吉本さんの講演では、
「聖書」とは、一般的には
キリスト教の経典として読まれているけれども、
これを、もしも、宗教とは関係なく、
思想書や哲学書として読むとすれば、
どのようにして読むことができるか。
というお話しなのだと存じますが。
講演の中で、吉本さんは、
「そのときに授けられたことばを言え。」
とおっしゃいます。

新約聖書・マルコ伝によれば、
「ことば」というものは、
「精霊が言わしてくれる」のだから、
どう言おうか、とか、
どう考えるか、とかは、
思いわずらうな。ただただ、
そのとき出てきたことばを言えばよいんだ。

このことについて、
信仰者ではない吉本さんが、
思想的なことばへ言い直されるとすれば、
「自然状態で言われることばというものは、
必ず、自分の持ち物に背かないものだ。」
とおっしゃいます。

吉本さんのおっしゃるこの
「自分の持ち物に背かない」
というのは、ぼくとしては、
まだよくわかっていないんですが。
それでも、なんだか、
「ことばをどう言おうか、とかは、
思いわずらうな。」というのは、
ちょっと勇気が出てくる気がする。

ことばって、
よくよく考えてみると、
なんだか、むつかしい、とゆうか、
もっと言えば、
どういうふうになっているのやら、
よくわからないものだなあー。

令和4年9月18日


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