観察と描写。
以前のブログの中で、ぼくは、
「インプット」「アウトプット」ということばが
けっこう苦手で、
じぶんでは、ほとんど使わない。
ってゆうのを書きまして。
そのブログを書いたときには、
1984年6月放映の『YOU』のアンコール放送より、
日比野克彦さんが
「貯蓄」と「排出」ということばを使っておられて。
これらのことばがさ、現在で言うところの
「インプット」と「アウトプット」の意味合いと、
おなじだなあと思ったのですが。
前回noteで書きました
「観察」ということばはさ、つまりは、
「インプット」でもあるなあと感じまして。
するってえと、さしずめ、
「描写」は「アウトプット」かな?
先日、豊田市美術館での『デザインあ』展にて、
『デッサンあ』の展示室でデッサンをするときに
ぼくが感じていたのは、
ぼくは、「描写」する技術も無いけれども、
そもそも、「観察」ができていない。
みたいな?!
ふつうに、ぱっと見ただけでは
「観察」にはならなくて。
「観察」って、じつは、
かなり、むつかしい。。。
おそらくは、これは素人考えだとはぞんじますが、
「描写」をするためには、
「観察」がひつようで。
さらに素人なりに考えてみれば、
そのときに、いくら
「描写」の技術を身につけたとしても、
「観察」ができなければ
「描写」することもできないな。
ということを、あらためて思ったのよね。
そして、たぶん、
「描写」をするためには、
「観察」をして、そこからまた
「描写」をして、ってゆう、
「観察」→「描写」→「観察」→「描写」→「観察」→
みたいに、螺旋構造的に
なっているのかもしれないな。
いつぞやのころ、ぼくは、
「表現能力」よりも、
「鑑賞能力」を高めたい〜。
みたいなことを思ったこともあるですが。
たとえば、俗に言われる
「インプット」と「アウトプット」もね、
「アウトプット」することで
「インプット」できて、みたいなふうに、
「インプット」と「アウトプット」を
はっきりとは分けられない。
ってえのは、感じるんだけれども。
うーんと、このあたりのことは、
まだ、うまく言えないな。
どの場所から観るか、とか、
どの角度から観るか、とか、
じぶん自身の目の状態とか視力とか、
身長とか、性格とか、体調とか、もろもろ、
「観察」することにも個性があるとも思うけど。
じぶんなりの「描写」や「表現」の前に、
じぶんなりの「観察」が、
できるようになりたいなあ。
というのを、こんかい思ったのよねー。
令和3年3月19日