見出し画像

恥ずかしさと当時のぼくが望んでいること。

この数年では性加害問題について、とくに最近では
某芸能事務所を創設した某人物による性加害に関して、
ニュースで多く報道されている。
これらの数多くの性加害問題について、とくに
組織及び芸能に関することはおそらくいろいろ複雑で、
ぼくにはわからないことだらけなので、
きちんとしたことは何も言えない。

ぼく自身の個人的な話しをします。

ぼくが、たぶん中学二年生のころだったのかな、
ある日の夕方ごろ今は無きある本屋さんを訪れて、
あるゲーム雑誌を立ち読みしていた。
その本屋さんはどちらかと言えば狭い店舗で、
本棚と本棚のあいだの通路も狭くて、そして
その時間はお客さんもほとんどいなかった。
そうしていたら、あるとき、
外国人の男性がぼくに話しかけてきた。
彼は、片言の日本語で
「いたいからさわってほしい。」と言い、
なにがなんだかよくわからなかったけど、
困っているならば助けてあげたいと思いつつ、
立ち読んでいたゲーム雑誌を棚へと戻して、
ぼくはこの男性のほうを向く。
男性の話しをよくよく聞くと、
その痛い場所というのは彼の「男性器」で、
今ならばそんなことを聞いたとすれば、すぐさま
その場を離れようとするとはぞんじますが、
このときぼくは中学生で、なぜだか
その男性から離れるというのは思いつけず、
彼の言われるようにして彼のズボンの上から
彼の男性器をさすってあげていた。

数分なのか、数十分なのか、
どのぐらいの時間が経ってからなのかは
憶えていないけど、この男性が
「つぎはズボンのうえからじゃなくて、
 そのままさわってほしい。」と言うから、
ぼくもさすがにこれは変だと思って、
その場を離れようとする。
本棚の場所から離れようとしたとき、
この本棚のすこし遠くのほうからは
数人の店員さんがこちらのほうを見ていて。
ぼくがお店の出口のほうへと歩いてゆくと、
ある店員さんはぼくに話しかけようとなさったけれども、
ぼくはこのとき、疲れと背徳感と恥ずかしさでいっぱいで
店員さんに応じることができず、
お店を出て家へと帰って来てしまったんだった。

男性のペニスを、ズボンの上から
さすってあげているときのことは、
記憶として憶えてはいるんだけど、
お店を出てから帰宅するまでのあいだと、
帰宅してからのことは全く記憶に無い。
そもそも、このうえのところで
「たぶん中学二年生のころだった」と説明したのですが、
ここで「たぶん」と書いたのは、
いつだったかをよく憶えていないから。
つまり、ぼくは、
その記憶をずっと忘れていたんだった。

このことを思い出したのはね、
おそらく、大学二年生のころかな。
大学近くの一人暮らしのアパートの部屋で、
夜寝ようとしたとき、突然、
このときの記憶が蘇ってきた。
いきなりそのことを思い出したぼくは、
まずは気分が悪くなって、
トイレに駆け込み、戻してしまった。
それから、そう言えば、
そんなことがぼくの身に起きていたけど、
なぜ、今、思い出すのか? とか、
そんなような記憶が消える、
なんてゆうことがありうるのか? とか、
いろいろなことを考えたと思う。
今のじぶんなりに考えられることはね、
じぶん自身を守るがために、
じぶんの無意識がこの記憶を隅に追いやり、でも、
あるときそれをふと見つけてしまったんだろう。
その記憶を思い出したとき、なぜだかぼくは
「中学二年生のとき」と思ってしまったから、
その時間を今でも採用しているだけで、
本当はいつだったのかは定かでない。

このときの出来事は、今もなお
ぼくの中のトラウマになっている、と思う。
「と思う」と文章で書くのは、
断定的で無いからよくない、
というのも言われているともぞんじますが。
ぼくとしてはこのことを、つまり
「ぼくの中のトラウマになっている」ということを
断定で言い切れるかどうかはよくわからないな。

ここで記すのは恥ずかしくもあるのですが、
ぼくは現在41歳で、これまで
女性とおつきあいしたことがなく、また、
性行為というのもしたことがない。
つまり、ぼくは童貞なのだけれども。
それはでも、このことは
ぼく自身の問題というか、いわば、たとえば、
ぼく自身の気持ち悪さだったり、
ぼく自身の不潔さだったり、
ぼく自身のコミュニケーション能力の欠如さだったり、
ぼく自身の風貌や姿勢や考え方や性格や性質だったり、
というようなもろもろのことが、
その原因になっているとは思うのですが。
でも、たとえば、ぼくは
「他人の身体がこわい」
という気持ちを持っているところがあって。
そういう気持ちを持ってしまったきっかけのひとつは、
このときにおける本屋での出来事も
関係しているのかもしれない、
と思ってしまいたい部分もある。

ぼくの身に起きたこのことは、
性加害及び性被害と言うには
その度合いは低いやもしらないけれども、
(もっと凄惨な体験をされている方がおられるだろうから。)
ぼくは、ぼくなりに、そういう
トラウマのような感情を持ってしまった出来事だった。

このことでこのごろぼくが考えるのはね、
もしもあのとき、ぼくが
店員さんの声に応じることができたならば、
どうなったんだろう? そして、そこで
大人の人だったり、もしくは、店員さんが
警察の方を呼んでくれたりして、お巡りさんに
今ぼくの身に起きた行為をじぶんの口から説明できたならば、
どうなったんだろう?
さらに、逆を言えば
ぼくがお店の店員の立場だったとすれば、
ぼくには何ができたんだろう?
ということも考える。

突如起きた得体の知れない出来事に対して、
あるこどもが、ぼくのいる場所からは
よくわからないことをされているように見えたとき、
ぼく自身は何をどう対処できるだろうか?

そんなようなことをね、このたびの
性加害のニュースを見ながら考えておりました。

ぼくのこの、些細とも言えるやもしれない
出来事から思うのは、
「恥ずかしい」という気持ちは
とてもとてもむつかしいものだなあ、
ということなのですが。
「恥ずかしい」という気持ちがあればあるほど、
そのことを他人には言い難いものになる。
これまでのあらゆる性加害問題に関して、
それらを受けてしまった方は、おそらく
「恥ずかしさ」をたずさえながらも、
このたび、声にされた、とぞんじますが。
たとえば、今までつらいめにあってきて、でも、
「恥ずかしさ」によって他人には言えない、
という状況の方がおられたときには、現在、
声になされる方々がたくさんおられて、そして
このことが社会の話題になることによって、
すこしでも声に出しやすい社会になっているならば、
それはとてもよいことである、と、ぼくは考えたい。
なおかつ、このことが性加害の防止に繋がればよい、
というのもぼくは信じたい。

ぼく自身としてはね、もしも誰かが
言いにくいことを抱えてしまっていて、
そしてたとえば、ぼくを信頼してくれて
そのことを打ち明けようとしてくれたならば、
ぼくは、そのことばを
傾聴できるようであれたい。

おそらく、それがさ、
たぶん中学二年生だった当時のぼくが、
望んでいることだった、と思うのよね。

令和5年9月19日


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?