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ことばとはなにかよりわからなくなってくる。

「慇懃無礼」という語句を初めて知ったとき、
その概念にことばを付けた人、
すごい! と思ったんだった。

「慇懃無礼」とは、『広辞苑(第七版)』によれば
【うわべはていねいなようで、実は尊大であること。】
とされていて、また、そのうちの「尊大」とは
【たかぶって偉そうにすること。横柄。傲慢。】
とのことでして、つまり、ていねいなことば及び
敬語で話していたとしても、その裏では
相手をばかにしている、みたいな場面がある。
そういうときって、でも、それがじっさいは
どういうときなのかをことばで説明するのは、
けっこうむつかしいとも思うのですが。
そういう場面のことを、かつて
「慇懃無礼」と名付けられた。

このことより考えられることと言えば、
たとえば、他人に対して、
敬語を使ってさえいれば大丈夫!
というわけでもないと申しますか。
敬語を使っていても、さらには
敬語を使っているからこそ、
ばかにしている、もしくは
ばかにされている、つまり、
無礼になる、という場合もありうる。
逆を言えば、敬語を使わないような
「タメ口」のことばで言うことで、親しみを込めた
敬意的な気持ちが伝えられる場合もある。
かと言って、すべての状況において
「タメ口」のみを使うのもよくない。
つまり、それは、その相手との
関係性によって変化してくるから。

「慇懃無礼」的な敬語を使うことによって、
その敬語の意味合いが相手に伝わるのではなくって、
逆に、その人のこころの中身のほうが
伝わる、みたいな解釈だと思うけれど。
つまり、敬語ということばを通して
こころの中の気持ちが透けて出てきてしまう、
とも言えるのかなあ?! なんとゆうか、
たとえば、でも、その敬語は
実はうそだったとしても、そのうそが
相手へと伝わってしまう、というか。
いや、うまく言えないんだけれども、
なんだかそういうふうにも思えるかなあ。

そう考えてみるとね、
敬語ってなんだろう? とか、
うそってなんだろう? とか、
ことばってなんだろう? とか、
気持ちってなんだろう? とか、
コミュニケーションってなんだろう? というふうにも
思うと言えば思うのですが。
それらの問いの答えだっても、ぼくは
よくわからないと言えばよくわからないな。

でも、これらの概念がこの
「慇懃無礼」という四字熟語の中に
セットのごとく込められている気もしていて。
ひとつのことばから、
いろいろ考えられて、
深い、と申しますか。
もしくはさ、そう考えれば考えるほどに
ことばとはなにか? ってえのも、
よりわからなくなってくるけれど。
ことばとはなにか? が、
「よくわかってくる」よりも、
「よりわからなくなってくる」ほうが、
よいんじゃあないかなあ、
って、ぼくとしては思っている〜。

令和6年5月20日


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