表紙17

其の六十八 副次的

《吉本隆明さんの講演『芸術言語論 −沈黙から芸術まで』(平成20年7月19日@昭和女子大学人見記念講堂)を、ぼくが毎回ほんのちょっとずつ聞いてゆきながら、あらためてどんなおはなしだったのかを思いかえしてまいります。》

シン・こんにちは。私は本日も講演を拝聴いたしたく存じ上げる。

前回noteでは、「要するに日本の芸術っていうのは、縮小すると言いましょうか、短くなることによって、芸術を蘇生させるというそういう傾向性がもともとあるわけです。ですから、芭蕉の俳句とバルザックの長編小説と比べて、これと比べたら作者の区別さえできないじゃないか。という論議はそれ自体がおかしい、ということになります。」と吉本さんおっしゃるばめんでした。

つづきでござる。。。

つまり、なんて言いますか。僕らの見解から言えば、自己表出と言われるもの。つまり、沈黙にいちばん近い、言語にならないところに。幹と、枝…。じゃない、幹と、それから根っこですね。その言語の本質であるところに近いところが、(チャプター11 / 芸術の価値_9:36〜)

「この問題をぼくらの見解で言えば、自己表出。つまり沈黙にいちばん近い言語にならないところ。植物に喩えれば、幹と根という言語の本質の部分が、」

芸術、表現された芸術の根幹を為す、ということは変わりないんで。つまり、魂を為す、ということは変わりない。小林秀雄の言うことに変わりないわけですけど。

「芸術の根幹をなす。つまり、芸術の魂をなす。ということには変わりないわけですけど。」

あの、残念なことに、えーと。指示表出というふうにコミュニケーションの代わりとするその芸術って言うのは、あの。芸術の役割って言うのは、芸術の価値に関係ないか? って言うと、そうでない。副作用として、副次的には、関係があるわけです。

「ただ残念なことに、指示表出という、言語におけるコミュニケーションの部分が、芸術の価値に関係ないのか?! と言えば、そうではない。指示表出も、副次的には関係があるわけです。」

‥‥と、ここで「残念なことに」とおっしゃるのはさ、なんだかちょっとおもしろい。いやー、うまくは言えないのでその理由とか書けないんだけれど。ここで「残念なことに」ということばを選ばれたのはさ、どことなくおもしろい気がするの。

講演をつづけます。。。

つまり、長編小説のように筋(すじ)合いとして、筋として。小説の物語の筋として。つまり僕の言葉で言えば、指示表出として。起伏がたくさんあって、そして興味深い箇所がたくさん起伏のなかに含まれている、っていう、

「つまり、長編小説のように、物語のすじとして小説の起伏がたくさんあって興味深いところがたくさん含まれて、という、」

それは副次的に言えば、自己表出、つまり芸術の価値に間接的に関わってきますから。

「その指示表出の部分は、自己表出、つまり芸術の価値に間接的に関わってきますから。」

その部分を考慮するかしないか、っていう。考慮できるかできないか、っていう問題を抜きにして、これを比べて良いか悪いか、って。こっちは第二芸術で、こっちは第一芸術じゃないか、って言うことは意味がないし。

「その指示表出の部分をどう考慮するのかどうか、という問題を抜きにして、たとえば日本の俳句とフランスの長編小説とを比べてどちらが良いのか悪いのか? と言うことには意味がないし。」

そんな論議は成り立たない。っていうのが、まあ、僕らが今まで述べてきたような考えかたを貫いて行きますと、そういうことに帰着してしまいます。ですから、この論議自体は。論議自体は、無効である、っていうことになります。

「そんな論議は成り立たない。論議自体が無効である、ということになります。」

俳句の「五七五」なのか、長編小説の「何百ページ」なのか、という文字の量についてはこれはコミュニケーション部分なので、芸術の根幹でありまた魂である沈黙の箇所を見ないで、作品の良し悪しを判別するのは意味がない。って言うことかなー??? 

うーんと、ちょっとむつかしいのだけどもぉ。このつづきはまたもや次回noteで聞くです。

平成28年10月21日



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