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海に浮かぶ小さな島でぶらぶらと待ちながら。

たくさんの人が、インターネット上で
文章を書かれているとぞんじますが、
その理由や動機は人それぞれなのだと思う。
たとえば、この「note」を含めたブログでは、
文章を読んでくれた人の心が、すこしでも
軽くなってくれたらという想いで書く、つまり、
だれかのために書く、というのも多いと思うのですが、
このブログを書いているぼくの場合は、
そういうふうなこともできないと思えるから。
とは言えども、ならばぼくは、
ぼく自身のために書く、ってゆうのも
ちょっとちがうような気がしていて。
いわば、ぼくの書く文章とは、
人のためになる、もしくは
じぶん自身のためになるようなものでは無い、
と、そう言い切れるやもしらないか。

ともすれば、ぼくは、なんのために
このブログを書いているの?
というのはじぶんでもよくわかんない。

前回noteでは、このブログを書くことにおいて、
なるべくいろいろなことを書きたい、そして、
いろいろなことばを書きたい、
と申したのですが。たとえば、ぼくは
このnoteと以前書いていたブログも含めて、
これまで何度ブログを書いたかはわからないけれども。
これまでに書いたことのないこと、及び、
これまでに書いたことのない語句を書く、って、
やっぱりけっこうむつかしいと思うの。
それはつまり前々回noteで申していたような、
ぼくというのは、どうしても
ある地点に定まってきてしまうのだから。

でもね、そんなぼくなりにこれまで
書いたことのないようなことやことばを、
書けたようなときには、なんというか、
じぶん自身の認知の枠が
広がったようにも感じられるの。

と、考えてみるとするならば、
ぼくがブログを書くということは、
じぶん自身の認知の枠を広げるために、
と言うとちょっと大袈裟すぎるけれど、
じぶん自身の枠を、じぶんで
見定めるために行なっている、
というふうには理屈として言える気がするかなあ〜。

ぼくの場合はね、闇雲に
その枠を広げてゆこうとするよりかは、
海に浮かぶ小さな島でぶらぶらと待ちながら、
時折、その島に流れ着くものを拾ってきては
これって、なんだろう? のように思う、
と言ったほうが近いやもしれないけれども。
そうして、ほんのすこしずつ
じぶんの枠が広がることもあるだろうし、
もしくは、そういうような枠がどんどん
せばまってゆく場合もあるやもしらないけど、
でも、なんだか、文章を書けば書くほど
じぶんの枠ってこんぐらいだよなあ、
って、わかってくることもあると思う。

つまり、
じぶん自身を知る、
というふうな感じなのかなあ???

そういうようなブログでは、
だれも救えないし、なおかつ
なにのためにもならないとしても、
それでも、ぼくはぼくなりに
ブログの文章を書けたら、と、ぞんじあげます〜。

令和6年6月26日


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