ことばが変化すること、ことばが残ること。
中学生や高校生のころ、
国語の授業が不得意だったぼくは、
古文というのも苦手だったけれども。
今になって考えてみれば、
古文って、不思議、というか、つまり、
じぶんたちが生まれる前のもっともっと
昔の人によって記されたことばが残っていて、
今でも読むことができる、って、
すごいことだなあと思える。
いや、ぼくの場合は知識が無いので、
実質的には「読む」ことはできないけど、
それでもね、現在ならば
インターネットで検索しながら、
現代語訳も見ることができるともすれば、
当時の文章を見て、多少なりとも
その雰囲気を感じることはできるでしょう。
古文でね、いちばん
不思議だなあと感じるのはさ、やっぱり、
ことばが変化している、ということかなあ。
ぼくは詳しい知識を持っていないので、
きちんとしたことは言えないんですが、
ことば自体のことで言ってみても、
今では全く使わないことばもあるし、
今でも使うことばでも意味がちがっていたり、
文法もちがってたりもする。
でも、なんだか、なんとなく
わかるかのような箇所もあったりして。
そういうことばの変化とは、
どのような時間を経ながら、
どのようにして変わっていったんだろう。
ってゆうふうにも考えてみれば、
ぼくらが今使っているこのことばだっても、
時が経てば、おそらく
「古文」になるんだろうなあ〜。
そういうような
「時が経てば」とは言えども、たとえば、
ぼくが生まれてから、
ぼくが死ぬまでのあいだでは、
ぼく自身の使うことばは
そこまで変わらないんだろうから、
おそらく100年ぐらいの時間では、
それほど変わらないかもしれないか。
夏目漱石の『こゝろ』は、
1914年発行とのことらしいので、
そう考えてみるとね、
ことばの変化と時間の関係性について、
見えてくるやもしれぬ。
でも、たとえば、
これまでの1000年間と
これからの1000年間とでは、
けっこうちがうような気もするの。
それはさ、つまり、
印刷技術や保存技術だけにとどまらず、
音声とか、映像とか、インターネットとか、AIとか、
そういうような科学技術によって、
ことばの変化にも影響してくるものかねえー。
だって、もしも、
清少納言とか、紫式部とか、紀貫之とか、
大伴家持とか、聖徳太子とか、卑弥呼とか、
松尾芭蕉とか、小林一茶とか、福沢諭吉とか、
そういうような方々が話している映像を、いつでも
動画で観ることができたともすれば、
やっぱり、けっこう、なにかしら
ちがうような気がするのよ。
それがさ、どうちがうのか、
ってえのはわからないけれども。
それに伴い、ことばが
めっちゃ変わるのか、ぎゃくに、
あんまし変わらないのか?
今の人たちが話すことばを、
1000年後の人たちが映像で観たとしたら、
どのように思われるのかな。そして、
そのころの日本語は、
どのように成っているんだろう?!
さらに考えてみるとね、
「ことばが残る」ということも、
すごいことだなあ! って思われる。
つまりはさ、
「ことばが残る」とは、
大戦争や大虐殺とかも無いかのごとく、
平和の象徴のようだ。
とも言えるやもしれないな。
脈々と受け継がれてきた
このことばが、これからも、
変化を遂げてゆきながらも、
脈々と受け継がれるように。
令和5年1月30日