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贈与と動機。

近内悠太さんの著書
『世界は贈与でできている』を読みました。

近内さんの書かれている「贈与」について、
ぼくは、著書の中で引用されている
内田樹さんの書籍『困難な成熟』も読んでいたので、
そのときにも考えながら、そしてまた、あらためて、
じぶんなりに考えている。

世界は「贈与」でできている、とは言っても、
私も、あなたも、他人に対して、
どんどん「贈与」をしよう。
ということではなくって。
ここで言われる「贈与」というのは、
「贈与」を受けてからの「返礼」の意味であって。
つまり、何かしらの贈り物を受け取ってしまったので、
「返礼」をしなければならない。
と感じて行われる行為のこと。

ここでの「返礼」とは、でも、
偽善でもなければ、
自己犠牲でもない。
と、近内さんはおっしゃいます。

このあたりのことをね、ぼくは、
じぶん自身のことばではうまく説明できないですが。
なんだか、著書を読みながら、
あらゆることが、この「贈与」から、つまりはさ、
「返礼」からスタートする、というほうが、
物事が進むのではないかなあと思ったのよね。

たとえば、ぼくは、
物事に取り組むことに対して、
「動機」が大事だと思っているんですが。
その人の持っている動機の強度によって、
物事が、こなせられるか、こなせられないか、が、
変わってくる。とゆうか。

そういうときにね、
「わたしはこれをやりたい」っていうような
じぶん発の動機よりも、
「じぶんにはこういう恩義があるから、
それを返すかのごとく、この物事をしなければ」的な、
返礼からスタートする動機のほうが、
動機の強度が高い。というのをね、
なんとなく、直感として、また、
じぶんの経験上からでも思っていて。

もちろん、じぶん発の動機でも、
強度が高い場合はあるけど、
そういう場合だけではなくって、
ちょっと、ふと、思っただけ、
みたいなこともあって。そのときには、
やっぱり、途中で諦めてしまうことが多い。

ぎゃくに、返礼から始まる場合には、
「返礼せねばならない」というような、
義務感にせき立てられているからこそ、
強い気持ちで、強い動機で、
物事に取り組むんではないかなあ。と思われる。

そして、でも、そんな
「贈り物」とは言っても、たとえば、
だれかから、どうぞ、と渡される
プレゼントだけでもなくて。つまりはさ、
生活上のあらゆることが、贈与であって。

えーと、なんだろうか、
インフラ、とか? 自然の恵み、とか?
趣味、とか。もふくめて。そういうような、
あらゆる「贈与」を感じながら、それに対して、
「返礼」する、という流れをさ、
いつも持ってられたら、と思うのよねー。

令和3年10月26日


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