表紙5

第11回 続・近親者の裏切り

【現在このnoteでは、思想家・吉本隆明さんの講演『喩としての聖書−マルコ伝』を、ゆっくりじっくり聴いております。ほんじつで「第11回目」です。前回はこちら〜。

前回の場面を踏まえまして、そのつづきですっ。。

つまり、それは実際的に、原始キリスト教が見事に実際に当面した問題を述べているんだ、っていうふうに思われますけれども。そういうことをはっきりと言っているところがあります。(チャプター4 / 聖書の思想のいちばん大切なこと_2:25〜)

「(キリストの教えである)福音」を、つまり「公の考え」を、述べて歩いていれば、ときに「親兄弟(近親者)」より裏切りを受けることは、ありうる。と、それは、「原始キリスト教」がじっさいに当面した問題を述べているとも思われるけれども。そうと、はっきり言っている箇所が「聖書」にはある。

つまり、そういう場合に。公の思想、さきほども言いましたけれども、公についての思想っていうものが、例えばその社会における秩序っていうもの、つまり、現在なら現在でも、現在の社会秩序っていうものに、反逆する、反する部分があるとすれば、

そして、その「公の考え」が、その社会における「秩序(‥‥物事が正しい状態を保つために守るべき、一定の順序(きまり)。/新明解国語辞典 第六版より)」に「反する部分」があれば、

反する部分をおまえは信じ、そして、おまえはそれを述べ、おまえはそれを貫こうとするならば。ある場合には、おまえの近親、おまえの親兄弟っていう者がおまえを裏切るっていうことは、ありうるんだよ。っていうことを言ってるわけです。

その「反する部分」を信じて、述べて、その考えを貫こうとするなら、あなたの近親者があなたを裏切るっていうことは、ありうる。。。

これもまた非常に見事な洞察であるし。見事な人間に対する洞察であるし。見事な、なんて言いますか、思想だって言うふうに僕には思われます。

そのことも、また、非常に見事な洞察であり、見事な人間に対する洞察であり、見事な思想だ、と吉本さんは思われる。

つまり、そう言うことによって「近親っていう者は何なのか?」っていうようなこと、あるいは、

そう言うことによって、「近親」とは何なのか? や、あるいは、

「近親っていうのは何なのか?」っていうことよりも。近親っていう者が、自己自身に対しても、それから自己が持つ公に関する考え、思想、あるいは行動っていうものに対して、

「近親」とは何なのか? っていうことよりも、「近親者」が、自己自身や自己の持つ公の考え・思想・行動に対して、

近親っていうのは、ある場合には、その足をひっぱることもありますし。矛盾することもありますし。ある場合には、もっとひどいめに合わすことっていうのも、ありうるんだよ。

その足をひっぱったり、矛盾したり、さらにもっとひどいめに、、 ていうばあいもありうる。。。

っていう、そういう矛盾っていうものを、人間の思想っていうもの、あるいは「信ずること」っていうことは、そういう問題をはらむものですよ。っていうことを言っていることは在ると思います。つまり、そこのところが、やはり、取り出しうる見事なところだっていうふうに思われます。

そういう、人間の「思想」や「信ずること」は、そういう矛盾の問題をはらむものである。と「聖書」では言っている。そのことが、吉本さんは見事だと思われる。

えーと。では、さらに吉本隆明さん講演は次回noteへつづきますぅ。にちようび、くもり、あめ。つゆぞら〜!!!

2016年6月19日