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第16回 何千年経っても古びない言葉
【前回noteよりつづきまして。吉本隆明さんの講演『喩としての聖書−マルコ伝』をちょびっとずつ聴く、的なシリーズをやっています。第16回め〜。】
こんにちはっ。ほんじつもさっそく。。
つまり、こういう認識が、それじゃあ例えば、千年なら千年、二千年なら二千年前にもうすでになされている。人間性についてなされている。っていうことが、誠に思想として見事だって言うより他ないわけです。(チャプター4 / 聖書の思想のいちばん大切なこと_9:49〜)
このような認識、つまり「同信者(おなじ物事を信じている者同士)だからと言ってその人を信じられるというのは、ありえないこと。」という人間性の認識が、千年二千年前よりすでに描かれていることが、まことにみごと。。。
そして、
つまり、何千年も経って古びない言葉ってものを吐くっていうことが、人間にはなかなかできないですけれどね。そういうことが、見事に書かれているっていうことは、それは大変すごいことだ。
この「何千年も経って古びない言葉」ていうのは、なんだかすごい気がするし、すてき。そーいうことばが「聖書」には記されていた、とゆうことなのねぇー。
つまり、人類っていうものはそういう人間を、そんなにたびたびは生むことができないわけです。
人類とは、そーいう人間を、そんなにたびたび生むことはできない。
つまり、これまた千年にひとりとか、あの、二千年にひとりとか、っていうふうにしか。
それは、千年にひとりや、二千年にひとりや、、、
そういうふうに、千年経っても滅びない言葉、千年経ってもちっとも古びない言葉。誰にでも通用するでしょう、どんなモダンなことを言っている現在の人にも通用するでしょう、っていうような言葉を千年も二千年も前に言えるっていうことが。そういう人間を、人類ってのは、なかなか生むことができないわけです。
どんなにモダンなことを言う現代のだれにでも通用する言葉を、千年も二千年も前に言える、ということが、
それだから、それはやっぱり、見事な思想っていうふうに。あの、単純なようですけれども、見事な洞察であり見事な思想だっていうふうに、言う他ない。言うことができるわけです。
これはいっけん単純のように見えるけれども、やはりみごとな洞察、みごとな思想だと言うことができる。のだと吉本隆明さんおっしゃいます。
それじゃあ、このつづきは次回です〜。このシリーズ、いつに終わるかぜんぜん分からないけど。じぶんのペースですこしずつ聴き進めてまいりますっ。
2016年6月24日
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