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対岸の「虹」に気づく人。

前回noteでは、「対岸の火事」という
ことばについてしるしましたが、今回もまた
さらにもうすこしだけ考えることをしるしてみたい。

前回では「対岸」によって、
つまり、ある距離によってへだてられた
「あちら側」で起きている出来事について、
「対岸の火事」ということばのごとく、あらゆる状況で
「こちら側」でも安全と言えるのか? もしくは、
「あちら側」で起きている出来事とは、
ほんとうには何が起きているのか、及び、
当事者の方々のほんとうの気持ちというのは、
想像も出来得ない、というのをしるしたけれども。
つまり、その
「対岸」の出来事をただただ
「こちら側」より眺めているだけで良いものか?
と考えてみたとしても、ならば、
「あちら側」へと行くべきなのか?
行けば、何かができるものなのか?
というのもむつかしいとも思えるけど。

さらに、もうひとつ
「対岸の火事」より考えるとすれば、
対岸で起きている「火事」を、対岸の
「こちら側」より「気づく」ことができるのか?!

外に居て、
あちら側のほうを見て、
あ、煙が出ている! 火事だ!
って思えたとしても、仮に
もしも家の中に居れば、また、
外に居たとしてもあちら側を見なければ、対岸で
火事が起きていることに気づけないやもしらない。
つまり、空に「虹」が出ていても
気づく人と気づかない人がいるかのごとく。

「対岸の火事」という語句について『広辞苑(第七版)』では、
【自分には全く関係のない出来事で、
 少しも痛痒つうようを感じない物事のたとえ。】
とされているけれども、ここで
【自分には全く関係のない出来事】と思うとき、
「対岸の火事」と言われるような状況において、
対岸で起きている火事に
気づいていながらもじぶんには関係ない、
と思っているのか、はたまた、その火事に
気づいてさえいないのか、
というそのどちらのパターンなのか?
ってゆうのは、ちょっと判別しづらいかな。

つまりはさ、
「対岸の火事」ということばより連想されるのは
「無関心」なのだとも思うのですが、この
「無関心」にもふたつのパターンがあって、
そのひとつとしては
「知りながらも関心を持たない」、
もうひとつには
「知らないから関心を持てない」。

前回noteの最後のところでね、ぼくは
「あらゆる他人のこと、つまり、
 じぶんの身体とはへだてられた他人の問題というのは、
 ある意味では、空間の距離的に考えれば
『対岸』であるとも言えるんだろう。」
と申したですが、そう考えるとすれば、
あらゆる他人に関する問題とは
「対岸」で起きている物事だと言えると存じます。
だからと言って、ならば、すべての
他人のあらゆる問題に「関心」を持つことも、
現実的では無いようにも思われる。

でも、そうとは言えども、やはり
「無関心」ではいられないこともある。

ぼくは、ぼくなりに、なるべく
いろいろなことに関心を持ってたい、
とは思うけれど、でも、それは
なかなかむつかしいことだとも思う。
そもそも、ぼくだっても、
気づいてないこと、知らないこと、わからないこと、
それがあることすら存じないこと、
ってゆうのがたくさんあると思っている。
でも、なるべくならば、
対岸の空で架かっている「虹」に、
気づける人であれたいな。

令和6年2月26日

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