日々の変化について。(「見えにくい」ver.)
前回noteでは、「明日は明日の風が吹く」と言われても、
明日の風と今日の風と昨日の風のちがいって、
ぼくにはあんまりわからない、でも、
たとえば、今吹く真夏の風と
半年前吹いていた真冬の風とのちがいは、
ぼくでもわかるだろう、的なことを書いたけれども。
このことって、案外、じぶんの中では
すごい発見なんじゃあないか! って、
ひとりでちょっと小躍りしたい気分になった。
つまりはさ、
とある「変化」というのは、
一日一日という短い時間で見れば、
ほとんど感じられなくとも、
半年間やそれ以上とかの長いスパンで観察すれば、
わかりやすくもなってくる。
それは、たとえば、
親戚や友人の子どもとひさしぶりに会ったら、
おおきくなったなあ! と思えども、もしも
その子と毎日会っているならば、
彼らの成長は見えづらかったりする、
ってゆうのと似ているやもしれない。
ならば、親戚の子どもじゃあなくって、
じぶん自身の「成長」だったり、もしくは
じぶん自身の「変化」というのは、
じぶん自身で見ることができるものか?!
というのは、やっぱり、
結構、むつかしいんだろうとも思う。
つまり、じぶん自身というのは
つねに、じぶんと一緒に居るんだから、
長い時間感覚で観察するのも困難だ。
そんなとき、人々は
日々の記録を取るんだろう。
そのような日々の記録として
わかりやすいのは、たとえば、
支出だったり、
収入だったり、
資産だったり、
体重だったり、
時間だったり、
成績だったり、
点数だったり、
ネットのアクセス数だったり、などなど
「数字」にまつわることだなあ。
それらの日々の記録をね、
折れ線グラフ等で表したともすれば、
日々の変化も一目瞭然だ。
でも、そんな「変化」の中には
数字にならないようなこともあって、たとえば、
性格的なことや、感情的なことや、
データにならない体力的なことや、
身体的なこと、もしくは、老いのことや、
じぶんの中で考えていること、のごとく、
そういうようなことは
「数字」で表せられるものでもないから、
日々の記録としてつけがたいし、つまり、
日々の変化も見えにくい。
けれども、そういう変化は、
日々において、まったくなんにも
変化が無いことは無いんだろうから、
日々、確実に変化している、
と考えたほうが妥当だと思う。
その変化とは、
よいこともあれば、
わるいこともあるとも思うけれども、
その変化を、じぶん自身的には
どう感じ取ることができるのか?
みたいなことを、考えるべきか否か、
というのもよくわかんないけどねー。
なんだか、あらためて、
この夏の風に吹かれながら、
そういうようなことを考えてみたんだった。
令和5年7月25日