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ことばと矛盾。

なにかを考えようとするとき、とくには、
とても複雑なことを考えるときに、
むつかしいのは、
矛盾をどうするか? ということかなあ、
と思っているの。

学校のテストのごとく、
答えがすでに決まっているような問題ならば、
その答えへと導くための解き方さえ分かれば、
よいのやもしれないけれども、
そうじゃあないような問題のときには、たとえば、
はっきり答えが出てこない場合もあるだろうし、
きっちりとした正解が無い場合もあるだろうし、
人によって答えが分かれる場合もあるだろうし、
そしてまた、
考えても、考えても、考えても、考えても、
どう言えばよいのやらわからない、
ってゆう場合もあるだろう。

考えようとする物事が、
複雑であれば複雑になるほど、
論理の筋道はあやふやになるし、
矛盾だっても起きてくるんだろう。

矛盾とは、
「どんな盾をも貫く矛」と、
「どんな矛をも防ぐ盾」があったとして、
その矛でその盾をついたらどうなるか?
と問いた故事が語源になっているらしいけれども。
それってば、つまり、
「矛盾」という語句とは、
ことばというものは、
物事を完全には説明できない、
ということを示していると思うのよね。
つまりはさ、
「この矛はどんな盾でも貫くことができる」とも、
「この盾はどんな矛でも防ぐことができる」とも、
どちらにしても、ことばによって
言うことはできるとしても、
実際はどうなるか、ってえのは、わかんない。

だから、
矛盾するようなことばは、
言わないほうがよい、
というのは、ぼくは、思わない。

矛盾は、悪だ、
というのも、ぼくは、思わない。

そもそも、ことばとは、
矛盾をはらんでいる、
とゆうか。もっと言えば、
ことばを使えば、
矛盾するのは、
前提なんじゃあないかなあ、
と思っている。

矛盾とは、
絶対に起きるものだとして、
矛盾が起きたときには、
その矛盾について、じぶんの中で
よくよく考えてみることが大事なのやもしれない。

ぼくが、ちょっと、こわいなあ、と感じてしまうのは、
矛盾を矛盾だとせず、その矛盾を
何も考えないようにするのを
見てしまうようなときかなあ。
そういうときには、
ちょっと、こわい、ってゆうよりも、
どこか不安を思ってしまう。

たとえば、
自己矛盾だってもね、
起きるのは当たり前なのだとして、
じぶん自身の自己矛盾を、
じぶん自身でほどけなかったとしても、
ぼくは、その自己矛盾を、
見つめていられるようでありたいんだなあ。

令和4年9月21日