其の六十七 日本の芸術の特徴
《吉本隆明さんの講演『芸術言語論 −沈黙から芸術まで』(平成20年7月19日@昭和女子大学人見記念講堂)を、ぼくが毎回ほんのちょっとずつ聞いてゆきながら、あらためてどんなおはなしだったのかを思いかえしてまいります。》
はたまた、こんにちは。ほんじつも、ききたい。
前回noteでは、「たとえば桑原武夫の、俳句の作者の名前を取っちゃえばどれが良いか悪いかもそれほど区別ができないじゃないか。という論議は、少なくとも日本の芸術と西洋の長編の詩と比べた場合に、そういう論議は成り立たないとすぐわかることは、たしかに小林秀雄の言う通りで。つまり、僕の言葉で言えば日本の芸術の自己表出は、決して外国の作家の作品に劣るもんでもない、っていうことは言える、と。」と吉本さんおっしゃるばめんでした。
つづきぃーーーー!!!
しかし、要するに日本の芸術っていうのは、いつでも。あの、なんて言いますか、こうなわけです。日本の芸術の特徴ですけど。(チャプター11 / 芸術の価値_8:29)
「日本の芸術というのは、いつでも、」
いつでも。あの。つまり、どう言ったらいいんでしょう。つまり、あの。縮小することによって、って言いましょうか。あの。短く、短くなることによって、
「縮小する、つまり、短くなることによって、」
芸術を蘇生させ、新たにさせる。っていうそういう傾向性が、もともとあるわけです。これは日本の芸術のものすごい特徴、大きな特徴です。
「芸術を蘇生させる、という傾向性があるのです。」
ですから、芭蕉の俳句見て。五七五で出来ちゃう、完成しちゃう芸術と。それから、例えば極端な例と取ったすれば、バルザックの長編小説と比べて、
「なので、五七五で完成される松尾芭蕉の俳句と、たとえばバルザックの長編小説と比較したとして、」
おまえ、これ比べたら、なんの作者の区別さえできないじゃないか。という論議はそれ自体がおかしいのであって。西洋の、おかしいってことになります。
「これをくらべたら作者の区別もできないよ、というのは、その論議自体がおかしい、ということになります。」
日本の芸術と西洋の芸術では、そもそも傾向性が異なっていて。日本の芸術のばあいは、俳句みたいに縮小して短くすることによって芸術を蘇生させるような傾向性がもとからある。っていうことでぇ、このつづきは次回noteでききやす。
平成28年10月20日
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