見出し画像

ぼくがぼくなりに考えていること。

ぼくはこうして、日々、
ブログを書いているけれども、
やっぱり、この、ぼくの書くブログがさ、
たくさんの人に読まれたら、とは願いながらも、
ぼくのブログとは、そこまで
たくさんの人には読まれないだろうなあ、
とも感じている。

ぼくのブログでは、主に
じぶんなりに考えていることを書いているけれど、
その「考えていること」を、
どうして、ぼくは考えているのか?
って考えてみれば、たとえば、
「考えたいから考えている」ではなくて、
「考えたいことを考えている」でもなくて、
それは、おそらく、
「考えてしまうから考えている」
なのやもしらないなあ。

どうして、ぼくは、そのことを
「考えてしまう」のか?
ってゆうのはさ、おそらく、
じぶんのつらさ、とか、
じぶんのいたさ、とか、
じぶんのなやみ、とか、
じぶんのくるしみ、とか、
じぶんのかなしみ、とか、
じぶんのにくしみ、とか、
そういう状態から、じぶん自身が
どうしたら抜け出せるのか?! というのを、
考えようとしているんだとも思われる。
つまり、じぶんの
「考え」を駆動させているのは、じぶん自身の
つらさとか、いたさとか、なやみとか、
くるしみとか、かなしみとか、にくしみとか、
というような「感情」なのやもしらない。

そういうような、
ぼく自身の感情による「考えごと」は、
ぼく個人のことであって、その考えが
たくさんの人から共感を持たれるとも思いがたい。
とは言ってみても、それは、
ぼくが特別な人間だ!
とかを言いたいわけでもなくて、言うならば、
こんな最下層のごとくな人間による、
たわごとであり、ざれごとであり、
他人からすれば無価値以下だとも思えるから。

でもね、そんな、
他人からすれば、つまり、
世間からすれば無価値以下だったとしても、
ぼく本人としてはさ、
ぼくの考えていることは、
ぼく自身の感情によって駆動されている、
ぼくが生きるための大事な「考えごと」だ。

そのことには、ぼくは、
誇りを持ってたい。

そして、もしも、ぼく個人だけでなくって、
だれかひとりだけにでも、つまり、
似たようなくるしみの中におられるようなひとりの方に
届いたとするならば、それは、それで、
とてもすばらしいことだなあと感じられる。
でも、たとえ、そんな
すばらしいことが起きなかったとしても、
ぼくは、ぼくなりに、
ぼくが生きるにはどうしたらよいのか?!
ってゆうのを、考え続けられたいの。

でも、やっぱり、そうとは言えども、
たくさんの人に読まれたい、
とも、願ってしまうんだねえ〜。

いつか、そのところまで、
たどりつけたらよいのに、
って、いのりながら。。。

令和5年3月22日


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?