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全ての語彙を手に入れたとしても。

以前、ある方と話しをしていて、
「休みの日には何をするか?」
というような話しの流れだったと思うけれども、
この質問に対して、ぼくは
「本とか読んだりしています。」
的に答えると、その方は
「読書はいいねえ、語彙も増えるし。」
とおっしゃった。
そう言われて、ぼくはさ、でも、
本を読むことにおいて、
語彙については全く考えたことなかったので、
「なるほどぉ、そういう面もあるやもしれませんねえ。」
と答えるので、精一杯だったんだった。
そして、それ以来、なんだか、
「語彙」について考えたりしているのよね。

そもそも、ぼくとしては
「読書をする」というのは、なにかを
学びたいがためにしているわけではない。
ならば、その、ぼくの動機ってえのはさ、
「さみしいから。」
だと思っているんですが。
とは言えども、「さみしい」ならば、
だれかと合えばよいじゃない?
って思われたとしても、なかなか、
じぶんの性格上、そうもゆかない、というか。
つまり、読書とは、そういうような
「さみしさ」を感じながらも、でも、
だれかと合うのは叶わない、
というような人が行う行為なのではないか?!
って、ぼくは思っているのよね。

そうして行われる
ぼくの読書なんだから、たとえば、
物事をより知ることができる、とか、
読解力が養われる、とか、
知識が増える、とか、
語彙が増える、とか、
そういうこともね、
もしかしたらあるやもしれないけれども、
どちらかと言えばそれは二の次というか、
つまり、それらは、読書における
二次的な恩恵だと考えている。
読書においていちばん大事なことは、
じぶん自身の「さみしさ」を
なんとか、まぎらわせながら、
とある日の「夜」を乗り越える、
みたいなことだと想っているの。

昨日のブログの最後でね、ぼくは、
いくら語彙を増やしたところで、
トランプの手札を集めながら
その状況に合致するようなことばを、
集めた手札の中からチョイスするようにして
ことばを発したとしても、
なにも語ることはできない。
って書いたのですが。

語彙だっても、とっても
大事なことなのだとしても、それは、でも、
ことばの「手札」に過ぎない、とも思う、
というか。
ことばのやりとりとは、
トランプの対戦ゲームではないんだから、
そんなにも、戦略的なことを
考えなくてもよいじゃん、とも思う、
というか。

読書をすることによって、
いろいろなことを考えることで、
じぶん自身のことを「知る」ことができる、
というのはあるやもしれないか。
ともすれば、そういう場合とは、
じぶん自身に合う語彙を探す行為である、
とは言えるやもしらないか。

なのだとすれば、読書とは、
語彙を増やす、ではなくて、
なんて言うんだろうかなあ、つまりはさ、
語彙を見つける、というか、
語彙を見極める、というか、
語彙とじぶん自身を合わせる、というか、
もっと言えば、
じぶんの語彙を減らすこと、
だとも言えるのかなあ?!

仮に、
語彙を増やして、
究極、地球上に存在する
全ての語彙を手に入れたとしても、
その語彙によって、人は、
なにを語ることができるだろう。
その逆に、
語彙が少なければ、
なにも語ることはできないものか?!

そういうのって、
ぼくはよくわからないのよね〜。

令和4年12月27日