表紙18

其の七十七 苦労

《吉本隆明さんの講演『芸術言語論 −沈黙から芸術まで』(平成20年7月19日@昭和女子大学人見記念講堂)を、ぼくが毎回ほんのちょっとずつ聞いてゆきながら、あらためてどんなおはなしだったのかを思いかえしてまいります。》

こんにちわっ。ほんじつも、きこーっと。

前回noteでは、「反語的な意味を含めて太宰治は、おれは芸術の価値なんて考えたことねぇ。っていうふうに言ったことがあります。それは、ごもっとも、ということで。この価値という概念は、近代ヨーロッパから現在に至るまで引きずっている僕なんかの言葉で言うと、ファンクショナリズム(機能主義)ということになります。機能主義を引きずっているということで、ちっとも科学的ではないですよ。」と吉本さんおっしゃるばめんでした。

つづきを。。。

科学的っていうのはここに人間という文節言語でもって、コミュニケーションもやるし、独り言もつくりだすし、(チャプター12 / 太宰治と「善蔵を思ふ」_1:50〜)

「科学的というのは、人間という文節言語でもってここにつくりだすコミュニケーション、ひとりごと、」

書くこともつくりだすし、書くことも沈黙のうちにつくりだすし、しゃべることもつくりだす。こういう、こういう、こういう芸術って言うのは、

「書くこと、沈黙のうちにつくりだす書くこと、しゃべること。こういう芸術というのが、」

完全で、完全に成り立ちうるんならば。そんならば。あの、なんと言いますか。ヨーロッパの芸術と、日本の言語芸術っていうのは、ちょっと特殊なところ、っていうのも同等に考えれば、それでいいじゃないか。と言いたいところですけども。

「完全に成り立ちうるのであらば、ヨーロッパの芸術と日本の芸術言語の特殊なところも同等に考えればいいじゃないか。と言いたいところですけれど。」

いつでも、そうはいかないところで。日本の芸術家、そこのところで苦労しています。

「いつでも、そうはいかなくて。日本の芸術家は、そこのところで苦労しています。」

‥‥てゆう感じで、ほんじつは講演をただ聞くだけでぇ。たぶん、ヨーロッパの芸術と日本の芸術はいろいろちがっていて、たいへん…。ということですか?! んでは、このつづきは次回noteで〜。

平成28年10月30日



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?