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小学校の運動会の練習の音を聞きながら。

自宅の近所のぼくの母校でもある小学校から、
運動会の練習の音が聞こえてきて、
その音や声を聞きながら、毎年、
ある考えごとをしている。その、
ある考えごとというのはね、運動会の
入退場の練習にて先生方が言われている
「全体、止まれ!」のかけ声なのでして。

「全体、止まれ!」
とのように先生方が言われて、そして、
児童たちは全員、行進を止める。
ぼくらが小学生だったときにもね、
このかけ声は行われていて、
当時、ぼくはとくに深く考えず、
「全体、止まれ!」と言われることによって、
その行進を止めていたけれども。
今になって考えてみると、なんだか、
「全体、止まれ!」というのは、
戦争の軍隊の行進を想起されて、
ちょっとこわさも感じてしまうの。

おそらく、先生のおっしゃる
「全体、止まれ!」などのかけ声は、
運動会が滞りなく進行することにおける
重要なファクターなのだとも思えるし、かつ、
集団行動を学ぶためでもあると思うけれども、
でも、なんだか、感覚的に、
こわさを思ってしまうんだ。

なにがこわいのかを考えてみると、
「全体、止まれ!」という語尾、つまり、
命令形のことばなのかなあ。

たとえば、ぼくが小学生のころ
運動会の行進の練習において、先生が
「全体、止まれ!」とおっしゃって、
ぼくも止まる、というのは、止まらないと
先生から怒られるから止まる、つまり、
これが戦時中だったとすれば、
上官の命令に背けば、その場で
射殺されるやもしらない。でも、ここは
日本の平時の小学校の運動場なのだから、
そんなことはありえないとしても、先生からは
「ちゃんと止まりなさい!」
「なぜ、止まらないんだ?!」
「周りの迷惑になるだろう!!!」
と、怒られるだろう。つまりはさ、
怒られるのがこわいから止まる、というような
恐怖の感情によって駆動させられている、
というのが、こわい、
と感じてしまう理由なのやもしらない。

また、さらに考えてみるとね、
「行進」ということも、軍隊の
パレードをイメージしてしまうから。

今日においては、
オリンピックの入場だっても、
行進ではなくて、ラフに、つまり、
自由に行われるものだから。

でも、たとえば、行進で
みんなできれいにそろってたら、
きれいだなあ、とも思ったりもする。

集団で行われることを挙げるとすると、
行進だけでなくって、
合唱とか、ダンスとか、演劇とか、
バンドやオーケストラの演奏とか、
というのもあるとも思うけれども。
おそらく、そのどれも、本当は
みんなで合わせたら、
たのしいから、おもしろいから、うれしいから、
というのが動機であると思うの。つまり、
怒られるからしないといけない、
ってゆうわけではない。

ならば、運動会の行進は、
どうなんだろうなあ。。。

でも、やっぱり、たとえば、
先生のおっしゃることばが
「全体、止まれ!」ではなくって、
「全体、止まりたい人は止まってください。そして、
 止まりたくない人は、止まらなくても大丈夫です。
 でも、止まらないまま動き続けて、
 疲れたら、いつでも休んでください。また、
 止まりたいのか、止まりたくないのか、
 悩んでしまう人がいたら相談してください。
 どうしたらよいのか、一緒に考えましょう。」
とか、もしくはね、
「行進ではなくって、
 走ってもよいし、
 止まってもよいし、
 好きな方向に向かってもよいし、
 一歩進んで二歩下がってもよいし、
 千鳥足でもよいし、
 スキップでもよいし、
 ムーンウォークでもよいし、
 もっとすごい歩き方でもよいです。
 いっそのこと、
 歌ってもよいし、踊ってもよいし、
 座ってもよいし、笑ってもよいし、
 遊んでもよいし、寝転んでもよいし、
 すべては、自由!!!」
という指示を受けたとしたら、
ぼくは、どうするんだろう?????

‥‥みたいなことをね、近所の
小学校の運動会の練習の音を聞きながら、
ひとりで、部屋で、考えていたんだった〜。

令和5年5月25日


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