表紙18

其の七十六 ファンクショナリズム

《吉本隆明さんの講演『芸術言語論 −沈黙から芸術まで』(平成20年7月19日@昭和女子大学人見記念講堂)を、ぼくが毎回ほんのちょっとずつ聞いてゆきながら、あらためてどんなおはなしだったのかを思いかえしてまいります。》

こんにちはっ!! きょうも、きくです。

前回noteでは、「芸術に価値というのはあるのか、ないのか。という論議も、日本語の文学、あるいは、芸術言語の場合には成り立つわけです。そういう論議をやったのは、太宰治です。」と吉本さんおっしゃるばめんでした。

そいじゃー、つづきを。。。

それで、おれは、芸術…。反語的な意味を含めて太宰治は、おれは、芸術の価値なんて考えたことねぇ。っていうふうに言ったことがあります。(チャプター12 / 太宰治と「善蔵を思ふ」_0:45〜)

「太宰治は、反語的な意味をふくめて、『おれは芸術の価値なんて考えたことねぇ。』と言ったことがあります。」

‥‥ここの「反語的な意味を含めて」ていうのはさ、太宰は、逆に「おれは、芸術の価値のことしか考えてねぇ。」という意味でもあるのかな?!

それは、ごもっとも、っていう。ごもっとも、ということで。価値という概念は、あの。なかなか、面倒…。実際にあれすると、面倒だからです。

「それは、ごもっとも、ということで。価値という概念は、実際に考えようとするとなかなか面倒だからです。」

えーと、面倒…。

で、これは、あの。この価値という概念は、つまり、ある意味ではヨーロッパにおける近代…、ヨーロッパ近代から現在に至るまで引きずっている僕なんかの言葉で言うと「ファンクショナリズム」っていうことに…。

「この価値という概念は、ヨーロッパ近代より現在にいたるまで引きずっている私のことばで言えば、ファンクショナリズム、」

つまり、「機能主義」っていうことになります。

「つまり、機能主義です。」

機能主義を引きずっている、っていうことで。科学的ではちっともないですよ。科学的ということとは違いますよ、って。

「機能主義を引きずっている、ということで。それは、ちっとも科学的ではないんですよ。科学的ということとは、ちがいますよ。」

‥‥と、すこしずつ、すこしずつ、講演を聞き進めて行っております。このつづきは次回noteで〜!! あと、よーやく映画『永い言い訳』観たよん。「ちゃぷちゃぷローリー」がよかった。。。

平成28年10月29日



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