表紙18

其の七十八 意識的

《吉本隆明さんの講演『芸術言語論 −沈黙から芸術まで』(平成20年7月19日@昭和女子大学人見記念講堂)を、ぼくが毎回ほんのちょっとずつ聞いてゆきながら、あらためてどんなおはなしだったのかを思いかえしてまいります。》

こんにちはっ。きょうも、ききます。

前回noteでは、「ここに人間という文節言語でもって、コミュニケーションもやるし、独り言もつくりだすし、書くこともつくりだすし、書くことも沈黙のうちにつくりだすし、喋ることもつくりだす。こういう芸術っていうのは完全に成り立ちうるならば、ヨーロッパの芸術と日本の芸術言語っていうのはちょっと特殊なところを同等に考えればいいじゃないか。と言いたいところですけど、そうは行かないところで。日本の芸術家はそこで苦労しています。」と吉本さんおっしゃるばめんでした。

では、つづきです。。。

あの、太宰治はそれをよく苦労して、苦労していて。太宰治が、たとえばその太宰治自身の考え方をもう少し普遍しますと、(チャプター12 / 太宰治と「善蔵を思ふ」_2:49〜)

太宰治もその面でよく苦労していて。たとえば太宰自身の考えかたをもうすこし普遍すると、」

‥‥の、ここでの「フヘン」と聞こえることばはさ、いちおう「普遍」という漢字を置いたのですが。なんとなく、ことばの意味はわからなくって。たぶん「広く見てみる」のような感じだと思うけれど。。。

講演をつづけます。

つまり、あの。太宰治の。たとえば、みなさんはもしかすると『人間失格』とか『ヴィヨンの妻』とか、あれで言うと『駆込み訴へ』とか、そういう晩年の力作ですね。

「みなさんはもしかすると『人間失格』や『ヴィヨンの妻』や『駆込み訴へ』という晩年の力作を、」

晩年の意識的な力作です。これを、太宰治のもっとも完成した芸術、言語芸術というふうに考えられるかもしんないけど、そうではないと思います。

「太宰治のもっとも完成した言語芸術だと考えるのかもしれないけれど、そうではないと思います。」

つまり、これはすでに太宰治が、自分がやってしまったこと、終わったことをもう一度確認して意識的に書いてる、優れた、いい作品です。

「つまり、これは太宰自身が、じぶんがすでにやったことをもういちど確認しながら意識的に書いている、いい作品です。」

‥‥というこのつづきは次回noteで〜。新月、ハロウィン、十月最後の日!!!

平成28年10月31日



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