果てしない日本語の冒険。
昔のじぶん自身に対して、
反省していること、というか、
あれは、だめだった、ってゆうのは、
いろいろあるですが、そのなかでもね、
そのいちばんとして考えられるのは、
大学を卒業したぐらいの時分において、
じぶんは大学も卒業したんだし、ならば、
「日本語」という言語は、ある程度、
マスターしたんじゃあないの?
と思ってしまったことだなあ。
そりゃあ、いちお、
六・三・三・四と言う年数を、学校で
母語である日本語で学んできたんだから、
日本語という言語を、ある程度は
言ったり、書いたり、聞いたり、読んだり、
できるようになった、とは言えども、でも
「マスターした」というのは、
思い上がりも甚だしかった。
日本語を学ぶことにおける「大学卒業」とは、
たとえば、テレビゲームで言えば
ストーリークリアみたいなことで、たとえば
『風来のシレン』シリーズで言うとすれば、
ストーリーをクリアしてから遊べる
ダンジョンのほうが重要というか、つまり、
クリア後の冒険のほうがメイン的な?!
それと同じようにして考えてみるとね、
大学等の学校を卒業してから
真の日本語の冒険が始まる、と言っても
かごんでない。
ってゆうことをね、当時のぼくは
まったくわかっていなかった。
二十代終盤のあるころ、
ぼくはようやくそのことを思いながら、
今に至るっちゃあ今に至るんだけれども。
それから、約十年が経ち、つまり
大学を卒業してからだいたい十九年経つけど、
まだまだ、日本語の道とは
あまりにも果てしないと感じられる。
その果てしなさとは、
ことばがむつかしい、とか、
ことばがわからない、とか、
ことばをしらない、とか、
ことばをつかいこなせない、とか、
ってゆうようなことだけでなくって、
たとえば、日本語という言語には、
ぼくが想像している以上に
もっと可能性に満ち満ちていて、
その可能性を、ぼくは、まだ
まったく計り知れていない、
ということなのだと思っているですが。
この可能性ってゆうのもね、たとえば、
「ことばには『力』がある。」というのとは
似ているような気もするけど、厳密に言えば
ちょっとちがうような気がする。
とは言っても、どうちがうかは
うまく言えないな。でも、
日本語という言語には、
ぼくが想像している以上に
可能性に満ちている、ということは
予感として想っているの。
それが、どんな
「可能性」なのか? ってゆうことも
いまだわからずではあるけれども、
そんなふうに想いながら、まだまだ
日本語をめぐる冒険はつづくんだなあ〜。
令和5年4月18日