「喩」として。
とは言ってみても、ってゆうのは前回noteでしるしました「コミュニケーションのチューニング」のことなのですが。
そうやって「意味と意味とがしっかり合っている。」てゆうのを、たとえば目標のようにしてしまえば、もしかしたら、しだいに「意味と意味とが完全に合わないとダメだ!」みたいにもなってしまうんかもなあ。とは、懸念としてちょっとおもうのよね。
「ことば」があって、
そのことばには「意味」があって、
その意味を「100パーセント」受け取り合えないと、
よくない!!! と。
なんだか、そんな「縛る」とゆうか、「すこしのズレもゆるさない」とゆうのは、ぼくはキツい、とゆうか。怖い、とゆうか。
たとえば、なんて申しますか、「余白」であったり「遊び」みたいなぶぶんがひとつも無くなってしまう。とゆうかさ。
そうなったらそうなったで、めっちゃしんどい気がする。
ぼくが昨日申しあげた「意味合い」とはさ。たぶん、「意味」とゆうことじゃあなくって。えーと、なんだろう??? たとえば吉本隆明さんがおっしゃっていた「喩」ということなのではないんかなあ、ってなんか思ったの。
「喩」、つまり、「メタファー(metaphor)」とゆう。。。
うーーーん、と。
それらは、ぼくはじぶんじしんのことばではなかなかちゃんと説明できないので、うまくは言えないんだけれどもぉ。
ことばに隠れている「喩」というものを、ちゃんと見られるようであれたらニャー!!
平成30年2月22日
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?