「学習」という場面の人間関係のこと。
人間関係においては、たとえば、
どちらかの側のほうが、
100パーセント完全に悪い、という場合もあれば、
どっちもどっち、つまり、どちら側も
50パーセントずつ悪い、という場合とか、そして、
どちらか側はかなり悪くって、そして
どちらか側はほとんど悪くない、つまり、
80パーセント悪い側と、
20パーセント悪い側とに分かれる、とか、
この「80」とか「20」とかの数字は。その場合によって
変わってくると思うけれども、そういうような
「どっちがどんぐらい悪い」ということって、
人間関係として考えられると思うですが。
こういうことだけではない人間関係というのが、
たとえば、ぼくは、
「教育」や「学習」だと考えている。
ぼくは現在、パートタイマーで
学習塾講師として勤めているのですが。
学習塾講師の場合では、たとえば、ぼくが
生徒さんへ何かしらを教え伝えるときには、
ぼくの説明によって生徒さんがわからなければ、
講師であるぼくとしては、
ぼくの説明がわかりにくかったから、つまり、
ぼくの説明がよくなかったから、
生徒さんはわからなかったんだ、と、解釈したい。
逆を言えば、たとえば、
「私の説明は完璧ではあったが、
生徒の理解力があまりにも乏しかったから、
この生徒は理解できなかった。」とは、思いたくない。
そしてまた、ぼくは、
以前のブログの中でも申しあげましたが、
先日、ある国家資格に合格いたしまして。
その勉強においては、専門学校の通信課程を受講しながら、
通信学習以外でも学校舎にて講義も受けたのですが、
そういうような学習及び授業においては、
かたや、このときには「生徒」であるぼくは、
わからないようなことがあった場合には
「この先生の教え方がよくないから、
ぼくは、わからなかった。」とは、
思ってはいけない、と、考えていた。
生徒、つまり、学習者であるぼく自身は、
なにかわからないことがあるとすれば、
それはもちろん、適宜、
質問等もいたしながら、でも、そのことを
教育者側のせいではなくって、
学習者側であるぼく自身のせいだ、
と、認識したい、と思ったんだった。
つまりはさ、
「学習塾講師」としてのぼくは、
生徒さんがわからければ、ぼくのせい、そして、
「生徒」としてのぼくは、
ぼくがわからなければ、ぼくのせい、
なのだと考えようと思った。
このことってば、でも、
こんかいのブログの最初でしるしました、
「どっちがどんぐらい悪い」
というのには当てはまらない、と申しますか。
つまり、ぼくが「講師」のときには
講師側が100パーセント悪い、そして、
ぼくが「生徒」のときには
生徒側が100パーセント悪い、という、
このことをさらに言うとすれば、
ある学習の場面においては、
先生の側は「先生が100パーセント悪い」と思い、
生徒の側は「生徒が100パーセント悪い」と思う、
というような、どちらともが同時に
「じぶんのほうが100パーセント悪い」
と考えることによって、
理想的な学習が成りたってくる、ってゆうのをね、
じぶんなりの仮説として思っているの。
こういう人間関係ってえのは、でも、
「教育」以外の場面では、案外
ないんやもしれない、とも感じるですが。
とは言ってみても、
ぼく自身だっても、学生のころには
あの先生の教え方が悪い、とか、
めっちゃわかりにくい、とか、
散々、思ってしまっていたので、
このことを、だれかに説教したい、
とかでもないんですが。
いろいろな場面においては、
人のせいのときもあるとも思うけれども、でも、
「学ぶ」ことにおいては、
だれかのせいにしたって
しょうがない、というのは
ぼくの中では思っていたいのよね〜。
令和5年6月30日