表紙6

第21回 自分自身を信じてるか?

「ほぼ日刊イトイ新聞」の「吉本隆明の183講演」より、吉本隆明さん講演『喩としての聖書−マルコ伝』をすこしずつ聴いてゆくシリーズ、やっています。前回noteはこちら〜。

それではっ。吉本さんの講演、再開してまいります。

それじゃあ、今度は「自分自身」っていうものは、イエスが、つまり新約書の主人公であるイエスは「自分自身を信じてるか?」ということになるわけです。すると、(チャプター05 / イエスも自分自身を信じきれなかった_0:00〜)

これまでの講演のところでは、「近親者」や「同信者」を信じることはできるのか? のおはなしだったですが。こんどは、じゃあイエス自身は「自分自身」を信じてるか? っていう、

そこはまた非常に重要な問題だって思われるんですけど。それはまた、それなりに言っているところがあります。あの、見つけようと思えばあります。たとえば、

このことは、また非常に重要な問題だと吉本さんは思われて。これも「新約書」の中で描かれている箇所がある、とのこと。それはたとえば、

マルコ伝の14章のところで、それこそみなさんもよく知っているところで。ゲッセマネでキリストがひとり、弟子たちから離れて、祈るところがあります。

「マルコ伝」の14章。ゲッセマネ(:エルサレムのオリーブ山の北西麓にあった地名。Wikipediaより)で、イエスが弟子たちから離れ、ひとりで祈るシーンがあり、

その祈った内容が問題なんじゃなくて、その、祈るところへ行ったときに言うことがあります。それは、マルコ伝の言い方ですると「わが心いたく憂(うれ)いて死ぬばかりなり。」って言うところがあるんです。それで、

その祈る場所へ行ったときに「わが心いたく憂いて死ぬばかりなり。」とイエスが言う。そして、

これは大変、あの、聖書の福音書の中では唐突に出てくるので。なにが、どうして、なにがいたく憂いているのか、わかんないじゃないか。っていうように読めるんですけどね。ただ、なにか知らないんです、なにか、まあ、そういう解釈の仕方をしますと、そういう単純に解釈しますとね、

これはたいへん唐突に出てくるので、どのようにして「いたく憂いているのか?」がよくわからない、というように読めるけれども。そういうように単純に解釈をすると、

なにかわからないんです。なにかわからないけれど、とにかく死の予感だけはあるわけですよ。イエスにはあるわけです、死の予感があるわけです。

なにかわからないんだけど、イエスには、死の予感だけはある。

で、ものすごく悲しいわけで、もう憂鬱なわけですよ。憂鬱で、死ぬほど憂鬱になるわけです。それで、ひとりで弟子たちから離れて、祈りたくなるわけです。

ものすごく悲しくって、死ぬほど憂鬱で。なので、イエスはひとり、弟子たちから離れて祈りたくなった‥‥

ってゆうようなかんじでぇ、このつづきはまた次回noteで聴きます〜!! どーぞ、よい1にちを。

2016年6月29日



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