発言とポリティクスと。
有名人が政治的発言をなされることについて、
このごろまた、あらためて考えている。
たとえば、ぼくは、
ASIAN KUNG-FU GENERATIONの音楽が大好きで、
それは、たしか2005年ごろ、
当時通っていた専門学校の友人たちの影響で
よく聴くようになり、以来、
ずっと聴いているのですが。
あるころから、アジカンを好き! と言えば、
「あぁー、政治的発言のバンドね(笑)」
みたいなふうにも言われたりして。
この「(笑)」って、つまりは、
嘲笑のようだとも思うのですが、
このことってば、そこまで
「嘲る」ぐらいのことなのかなあ、とは、
いつも感じていたんだった。
そして、ならば、
バンドのアジカンだけでなく、
その他の有名人の方々が、
政治的発言をなされることについて、
ぼくは、でも、政治に詳しい、とか、
政治に関する知見を持っている、とか、
では無いので、それらの発言の是非について
ちゃんとした見識も述べられないけれども。
ぼくのなかではね、やっぱり、
「嘲る」というのは、
いやだなあ、とは思っているの。
民主主義の社会では、おそらく
ありとあらゆる意見があって、
それらのどの意見においても、
その意見が登場するだけの
動機みたいなことがあって、
この動機によって、社会に対して
発言がなされると思うのね。
でも、そういうふうにして、つまりは
「嘲る」みたいにされながら、
政治についての話題を、どんどん
タブーのようにすることによって、
息苦しい社会へと成ってゆくようにも感じてしまう。
このあたりのことはさ、おそらく
もっともっと複雑で、こんなふうに
単純に、簡単に、なおかつ、
一概には言えないとも思うけれども。
ぼくは、ぼくなりに、
政治のことを、そして、
政治的発言のことを考えてたい。
ぼくだってもね、ときには
このブログで政治に関することを
しるすこともあるけれど、それはさ、
「これって、なんだか、変じゃあない?」
という場合であって、でも、これは
ぼくの考えの正しさを主張したいんではなくって、
なにが正しいのかよくわからない、
という場合なのだと思っているの。
ありとあらゆる意見があるかのような
民主主義というのは、とてもとても
むつかしいものだとも思うけれども、
そのむつかしさの海を、なんとか
泳ぎ渡ることができたら。。。
ポリティクスに興味はねえ、
なんてことは言いたくないんだぜ!
令和5年3月20日