見出し画像

「書」を書くこと、そして、先導と先導の繋がりの歴史。

先日、アルバイト先の学習塾にて、
小学二年生になったばかりの生徒さんが
あたらしい漢字を習っているときのこと。

ぼくが勤める塾では、
小学生があたらしい漢字を習うときは、
塾で使用するテキストに記された欄の中で、
まずは、うすい文字をなぞってから、
そのあとじぶん自身で書く。
という流れなのですが。
漢字、書けているかなあ? と、
この生徒を見てみると、ぜんぜん進んでいない。

でも、
さぼっている様子でもなかったので、
よくよく見てみると、なんだか
「書」という漢字でストップしているのよね。

ここで、ぼくがふと思ったのは、
「書」ってゆう漢字って、
じつは、あんがい、かなり複雑で。
小学二年生になったばかりでは、
いきなり書くのはたいへんやもしれない。
なので、この生徒へ、
「この『書』の漢字って、
 けっこうむつかしいよねえ。」
って伝えながら、ぼくが一画ごと
紙におおきく書くのを見せると、
生徒は、それを見ながら書いてくれた。
このことがさ、
とってもうれしかったのですがー。

漢字ってぇのも、やっぱり、
さいしょはむつかしくって。
それは、たとえば、
山登りをするとき、いきなり、
その高い山を見せられても、
しりごみをしてしまうけど。
先導してもらうようにしながら、
一歩ずつ進んでゆければ、
いつか頂上へたどりつける、かもしれない。
そういうようなイメージと近いのかもしれないなあ。

ぼくだってもさ、小中学生のころ、
漢字が苦手だったけれども。
記憶はおぼろげながら、
先生に先導してもらうようにしながら、
書いていたやもしれないな。

たとえば、
漢字とは、そして、教育とは、
先導した側のひとも、
いつか、だれかに先導してもらっていて。
その先導したひともまた、
いつか、先導してもらっていて。
そのひとも、また、、、
というような、
先導と先導の繋がりの歴史なのかもしれない。
って、なんだか感じたのよねー。

令和3年4月25日


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?